古代(先史時代~4世紀)
太古の昔から、音楽は人類とともにありました。はじめは抑揚をつけた言葉や、感情をあらわした叫び声から、次第に節回しがあらわれ、音楽の形になっていきました。古代文明が誕生したころには遺跡から楽器が出土し、はっきりと「音楽」が奏でられたことがわかります。
ポリスとよばれたギリシャの都市国家の遺跡には劇場が多く存在し、喜劇や悲劇を合唱がいろどり、人々の身近に音楽が存在していたことでしょう。ギリシャ神話の神、アポロンは手に竪琴を持っています。アポロン神のように竪琴を手にして歌っていた市民も多かったに違いありません。
地中海の覇者となったローマ帝国はギリシャの文化を受け継ぎました。ローマの遺跡にも劇場がありました。「暴君」とよばれた皇帝ネロは竪琴を奏でて歌を歌い、数千人の観衆を集めたと言われます。また、ローマ帝国の末期にはキリスト教が国教となりました。キリスト教がローマ帝国の隅々にまでひろがり、礼拝で歌われていた聖歌もヨーロッパ中に広がり、西洋音楽のルーツとなりました。
中世(5世紀~14世紀)
ゲルマン人の侵入が激化してローマ帝国が弱体化し、分裂するとヨーロッパは長い中世に入ります。中世は様々な国家が興亡する混乱の時代でもありました。中世において強い力をもったカトリック教会は聖歌を各地に根付かせました。各地の伝統的な歌や新旧の聖歌が融合されて発展し、9世紀ごろ、グレゴリオ聖歌として知られる一連の宗教音楽にまとめられました。
ルネサンスと宗教改革(15世紀~17世紀)
中世においてはキリスト教の影響力は絶大なものがありましたが、その影響力にも陰りがみられたころ、都市を中心にルネサンスという文化運動が起きました。従来のキリスト教会を中心とした芸術だけではない、市民による「人間らしい表現」をするという文化運動の中で、多くの芸術家を保護した君主も多く登場しました。こうした動きのなかで、ルネサンス音楽が育まれました。また、この時代には、それまでのカトリック教会の在り方を批判した人々によって、プロテスタントという新たなキリスト教会の宗派が生みだされた、宗教改革の時代でもありました。ドイツの宗教改革をおこしたルターは、讃美歌の歌唱を重視していました。ルターは、それまでの聖歌の旋律をドイツ語で歌いやすいように改変した讃美歌集を出版しています。
音程を「数」でとらえた数学者ピタゴラスと「音階」のなりたち
音程を「数」でとらえた数学者ピタゴラスと「音階」のなりたち
「三平方の定理」などで知られるギリシャの数学者のピタゴラスは、哲学や天文学の研究でも知られますが、その研究の分野は音楽にも及びました。ピタゴラスはその研究の中で、「音程」の関係を明らかにしたといわれています。ピンと張られた弦をはじいて出た音を「ド」と考えます。そして、その弦の半分の長さの弦をはじくと、1オクターヴ上の「ド」の音が出ます。そして、元の長さの3分の1の長さの弦をはじくと「ソ」の音が出ます。続いて、5分の1の弦をはじくと何の音が出るかといえば、「ミ」の音が出るのです。
このように、元の弦の「何分の1」というような長さをつくりながらできた音を並べ替えていくと、私たちが知る「音階」となるのです。そしてピタゴラスは2:1とか、3:2とか、5:4のように、元の長さが単純な比に近いほど、美しい響きになることを発見しました。あらゆるものは「数」で構成され、あらゆるものが「数」の法則によって支配されていると考える数学者ピタゴラスにとって、音もまた、数学の一部だったのです。
「大教皇」の名を冠したグレゴリオ聖歌
中世の聖歌の代表例であるグレゴリオ聖歌は、聖書の言葉を「ひとつの旋律で詠唱する(単旋律)」という形式をとります。ローマ帝国の時代から歌い継がれてきた聖歌と、各地で独自に発展してきた聖歌が融合し、中世を代表する国家であるフランク王国が盛期を迎えた9世紀ごろに形式がととのえられたといいます。のちに楽譜に書きおこされてカトリック教会の公式な聖歌となり、儀式になくてはならないものとなります。
この、「グレゴリオ聖歌」の名称はローマ教皇のグレゴリウス1世にちなんだものです。6世紀から7世紀にかけての人物であるグレゴリウス1世は「大教皇」と呼ばれ、ゲルマン人社会への布教を熱心に行った、中世のキリスト教を象徴する人物として知られます。グレゴリオ聖歌が確立したのはグレゴリウス1世の時代からずいぶん後のことですが、象徴的な人物の名をつけることで、その権威を高めたのです。グレゴリオ聖歌は現在、男声合唱で歌われることが多く、「癒しの音楽」として人気を博しています。
中世の人々の耳を楽しませた「歌い手」たち
グレゴリオ聖歌の成立は、西洋音楽のひとつの源流となりましたが、民間にも多くの歌い手たちが存在し、人々の耳に音楽を届けていました。吟遊詩人と言われた人びとは各地を回りながら伝承や物語、騎士たちの恋愛模様、見聞きした事件などを歌に乗せて伝え広めました。十字軍の活躍の様子なども吟遊詩人の歌に乗せてヨーロッパに伝えられたといいます。中には宮廷を遍歴し、貴族や王たちに歌を聴かせた腕利きの吟遊詩人もいました。
中世後半、都市が発達すると、吟遊詩人の中には都市にとどまって、歌を歌うことを職業とする者も登場しました。ドイツでは歌い手の組合が結成され、すぐれた歌い手は「マイスター(親方)」となり、「マイスタージンガー(親方歌手)」と呼ばれました。マイスタージンガーの伝統は16世紀ほどまで続きましたが、このマイスタージンガーの資格試験を題材にしたワーグナーの楽劇《ニュルンベルクのマイスタージンガー》は有名です。
多様な響きが人々を魅了したルネサンス音楽
レオナルド=ダ=ヴィンチやミケランジェロなど、多くの芸術家たちが登場したルネサンスの時代には、音楽もまた、多様な発達を遂げました。画家や建築家などが君主や貴族たちに招かれたように、音楽家も芸術に理解がある君主や貴族たちによって保護されました。
特に、音楽の発展に重要な役割を果たしたのがフランス中部のブルゴーニュ公国です。ブルゴーニュ公国の宮廷ではデュファイら、多くのすぐれた音楽家が集まっていました。このブルゴーニュ公国はフランスに併合されてしまい、ブルゴーニュ公国の音楽家はフランスやイタリアに散り散りになってしまいましたが、それがかえって各地の音楽文化を発展させたのです。そうした音楽家たちの中でも、フランス北部から現在のベルギーやオランダにかけての地域を拠点としたジョスカン・デ・プレなどのフランドル楽派の音楽家たち、ヴェネツィアのガブリエリ、ローマのパレストリーナらが有名です。この時代にはルネサンスの「三大改良」のひとつである印刷術が発展し、楽譜の印刷により音楽の普及もすすみました。ルネサンス音楽には複数の声部が呼び交わすような表現が多く、その響きを愛好する熱心なファンも多くいます。
バロック音楽を生み出した宗教改革と対抗宗教改革
ドイツの神学者ルターが免罪符を販売していたカトリック教会を批判したことから、宗教改革が始まりました。ルターはそれまで聖職者がラテン語で歌うものであった聖歌を、一般の信者も歌うことが重要だと考え、理解しやすい旋律と民衆が使うドイツ語に再編した讃美歌を作曲しました。この讃美歌は「コラール」とよばれましたが、ルターの死後も数多くのコラールが生み出され、合唱曲やオルガン曲に発展しました。こうした宗教音楽の流れを受けつぎ、より発展させたバロック時代の作曲家がバッハなのです。
また、プロテスタントに批判されたカトリック教会も、プロテスタントを批判し、反撃しました。これを「対抗宗教改革」といいますが、その動きの中でカトリック教会の儀式の在り方や音楽の在り方も見直されていきます。この「対抗宗教改革」はイタリアを中心におこりましたが、それがイタリアのルネサンス音楽の発展や、イタリアを中心としたバロック音楽の成立を生むことになりました。