「Dialogue」

 

小山薫堂

 

 このアルバムは、半世紀を生きた女性の一大決意である。カバーやトリビュートといったありきたりの言葉では片づけられないくらい、アーティスト・今井美樹は今回のアルバムに命がけで向き合っていた。「命がけ」という言葉が彼女の軽やかなイメージに似合わないことは分かっている。けれども、六本木のカフェでユーミンへの想いを2時間以上も語り続けるその姿は「命がけ」そのものだった。
 今井美樹とユーミンの出会いは38年前に遡る。宮崎の片田舎に暮らす、陸上とピアノが大好きな12才の女の子は、ある日テレビから流れてきたドラマの主題歌を耳にしてハッとした。曲のタイトルは「あの日にかえりたい」。歌詞の意味はよく分からない。誰が歌っているのかも知らない。しかしそのどこか切ないメロディーと特徴ある歌声は、純真無垢の女子中学生の心を激しく揺さぶった。それからしばらくして、憧れの存在でもあった5才年上の従姉妹の部屋で「荒井由実」と書かれたカセットテープを見つけたことで、そのアーティストへの興味は一気に高まる。そして初めて買ったユーミンのレコードが、4枚目のアルバム「14番目の月」だった。
 実家はオーディオ専門の電気店。父親がジャズ好きということもあり、家の中にはいつも“夢のあるいい音楽たち"が流れていた。そんな環境が少女の耳を大人にしたのかもしれない。気がつけば、全ての小遣いをユーミンのレコードにつぎ込むようになっていた。放課後、ピアノの弾き語りが日課となり、鬱屈した孤独感をそれで紛らわせた。
ユーミンの音楽は、当時の今井美樹にとって「憧憬の窓」に等しかった。東京への憧れ、海外への憧れ、そして大人への憧れ・・・音楽の向こうにキラキラした何かが見える。レコードノイズと共に聴こえるユーミンの歌声は、彼女をここではないどこかへと駆り立てた。
 80年代、なぜ日本の文化はあんなに豊かだったのだろう、と思うことがある。過去を美化するつもりはないが、80年代はあらゆるものが輝いていた気がする。その根底にあったのは、若者たちの「好奇心」と「憧れ」である。世の中に少しずつ情報が溢れ始めた時代、ファッションや音楽の世界には何人ものカリスマがいた。人々は競ってその情報やスタイルを吸収し、自分のものにしようと努力した。そこに苦しさや楽しさがあった。そしてそれこそが、人生の価値だった。
 1982年、宮崎の高校を卒業した今井美樹は、ユーミンの音楽に導かれるようにして上京した。当時の彼女にとって東京と言えば「東京銀座資生堂のCM」と「ユーミン」。「昨晩、お会いしましょう」というアルバムが、大都会・東京の華やかなイメージと重なった。それを歌うユーミンは、ファッショナブルでクールな都会の大人。今井美樹の全ての夢は、ユーミンの音楽に包まれて育まれた。恋も仕事も、生き方さえも。
実は今回のアルバムは、今井美樹本人が発案したものではない。レコード会社から持ち掛けられた企画である。その話を聞いた彼女はこう思った。
「私には触ることができない」
 今井美樹にとって、松任谷由実は神に近い存在である。その人の音楽を自分が触るという恐怖。加えて、
「人に言われてやりたくない」
というプライドも働いた。そして、誰よりもユーミンの音楽を愛しているという自負もあった。だからその領域に手をつける時は、自分が発案者でいたい。そういう想いから、一旦は断った。のだが・・・
 拠点をロンドンに移し、新しい生活を始めたこと。50才という年齢になったこと。この二つが彼女の背中を押した。
「このタイミングを逃したら、もう二度と出来ないかもしれない」
50才という人生の節目に自分の原点と向き合い、一旦すべてを吐き出したいと思った。これを越えなければ、次には進めないと直感した。その時、自分の中から何が出てくるのか?つまりこれは、新しい自分への挑戦でもあるのだ。
 かくして今井美樹、2年半ぶりのアルバムは、この世で最も敬愛するアーティストを介して自分自身と対話する作品となった。
 新しい拠点、ロンドンでのレコーディング。布袋寅泰の推薦によって、ジャミロクワイやビョークを手がけてきたサイモン・ヘイルをサウンドプロデューサーとして迎えた。彼と同じく、集まったミュージシャンも全員外国人のため、ユーミンのことを何も知らない。敬愛するユーミンと一流ミュージシャンをいかにつなぐか、それが今回の最も重要なポイントである。そのためまず、自分の「好き」をはずすという作業から始めた。ユーミンの作品の本質を自分なりに解釈し、その魅力を彼らにきちんと伝える。それはさながら、伝道師のような作業であった。そして途中からは布袋寅泰も参加。結果として、このアルバムはサイモン・ヘイル、布袋寅泰、そして今井美樹という三人のプロデューサーの共作となったのである。
 今回、何よりも彼女を悩ませたのが選曲である。膨大な楽曲の中からCD一枚に収まる数まで絞り込まなくてはいけない。それゆえまず、自分が最も深くユーミンの音楽に浸かっていた1987年以前の楽曲を対象にすることにした。そして絞りに絞り、断腸の思いで削って、その上さらに絞りに絞って、12曲を選び抜いた。全てに大切な意味がある。
 初めてピアノ譜を買って弾いた「卒業写真」、東京に上京してから毎日のように聴いていた「中央フリーウェイ」、そしてユーミンを知るきっかけとなった「あの日にかえりたい」。この3曲は、軽々しく触ってはいけないと自覚しながら、自分の原点を見つめる上でどうしても外せなかった。
「人魚になりたい」は、全ての歌詞が光景として彼女の中に刷り込まれている楽曲。映画監督がキャメラマンに撮りたい映像を説明するような感覚でサイモンに世界観を伝え、この楽曲が完成した。確かに目を閉じて聴くと、一本の短編映画を鑑賞した気分になる。
「やさしさに包まれたなら」は、風に吹かれるイメージを出したかった。一人の鼻歌から始まって、ドラム、ベースと少しずつ音が集まってくる。キャンプファイヤーのような楽曲に仕上げたかったという。これに留まらず、全ての楽曲を今井美樹は自分なりに解釈し、一度バラバラにして、再び構築する・・・そういう緻密な作業によってこのアルバムは作られているのである。
「シンデレラ・エクスプレス」は、やはり上京時によく聴いていた、バブル期の東京を思い出す一曲。自らが主演していたドラマ「ブランド」のワンシーンで、アドリブで口ずさんだのがこの曲だったという。
「ようこそ輝く時間へ」は、実は本作の中で最大の挑戦でもあったらしい。カッコよくて触りようがないくらい完成されている作品をどうリメイクするか。この難題は、ロンドンのアシッドジャズバンド、インコグニートとのコラボレーションにより見事に解決されている。
「霧雨で見えない」は、今回のアルバムにおける“重石"のような役割を果たしている。淋しくて悲しくて重たい楽曲を、アルバムの中にポツンと置きたい・・・そんな想いで選んだのがこの曲だった。
「青春のリグレット」は、そもそも他のアーティストへの提供曲として生まれた作品。当時は全く見過ごしていたこの歌詞の奥深さに今回、改めて感激したという。聴き手の人生経験によって楽曲の魅力が七変化するあたり、ユーミンワールドの真骨頂と言えるかもしれない。
「青いエアメイル」はコアなファンに愛されている名曲である。ピアノの弾き語りに夢中だった青春時代、毎日歌っていた。実はデビューのきっかけとなったデモテープの中に、この曲の弾き語りが含まれていたという。今井美樹というシンガーの根幹がこの曲にあると言っても過言ではない。
彼女が高校3年生の時に感じていた東京のきらめきは「手のひらの東京タワー」に凝縮されている。そして今なお、彼女にとって東京のイメージはこの曲そのものだと言う。
「私を忘れる頃」は、アーティスト・今井美樹が仕事に息切れしそうになっていた30代の前半、 辛くても自分の力で歩いていかなければいけないと決意した時に、彼女の頭をふとよぎった曲だった。そして当時のディレクターに、この曲をレコーディングしたいと提案。やがて両A面シングルとしてオリジナル作品も制作しようという話にまで広がった。
 結局「私を忘れる頃」のレコーディングは実現しなかったが、その決意は「PRIDE」という名曲に辿り着き、布袋寅泰という最高のパートナーにも恵まれた。つまりこのアルバムの締めくくりに選んだ楽曲こそ、今井美樹の人生最良の分岐点なのである。
 ユーミンの音楽は、単に懐かしいものではないと、今井美樹は言う。後ろを振り返る、よりも、より前を見て先に進みたいと思わせてくれる音楽。松任谷由実というアーティストは今なお、追いかけても追いかけても手の届かない大人の憧れの中にいる。けれども、彼女は笑いながら言った。
「冷静に考えたら、ユーミンが20代の頃に作った曲を、50代の私が歌っているんですよね」
 自分の原点と対話を終えた今井美樹は、まるでこれから新しい世界に旅立つ少女のように見えた。