OFFICIAL LINER NOTES
MUSICA編集長 有泉智子
01. ニュー・マイ・ノーマル
遥かな期待と少しの不安を胸に新たな夜明けをのぞむようなギターのアルペジオから、快活に飛び跳ねるビートに乗って一気に歌が、ミセスが走り出していく、始まりの歌。2022年3月18日、Mrs. GREEN APPLEのフェーズ2開幕を高らかに告げるものとしてドロップされたこの楽曲は、ストリングスも含めてそれぞれの音が放つエネルギーがとても大きい、まさに生命が一斉に芽吹いていく瞬間を映し出すかのような鮮やかな力と祝福に満ちている。リズムもコードも同じところに留まることなく、どんどん変化を繰り返しながら前へ前へと進んでいくそのさまは、ここから始まる新たな冒険に対する期待と高揚を強く掻き立てるものだった。
フェーズ1からフェーズ2に至るまでの間、ミセスは休止期間中にもかかわらず数々の楽曲をトップチャートに送り込み、リスナーを倍増させるという快進撃を生んでいたけれど、ただ、バンドにとってはおそらくその歴史の中でも1、2を争う苦しさを経験したタームであったことも間違いないだろう。彼らはのほほんと休止期間を満喫していたわけではなく、それぞれが自身の弱さも含め、自分というものとストイックに向かい合い続けた時間だったこと。さらには休止時点とは異なる体制での再出発という形になったこと。再始動時のインタヴューで大森は「出会いと別れと挫折と不安と、それでも明日に向かう強さと、そういうものをちゃんと経験として知ることができた」と語ったが、その上で生まれたのがこの“ニュー・マイ・ノーマル”であり、そしてその後のフェーズ2の楽曲達だ。その経験は今のミセスのひとつの背骨となり、彼らの音楽にフェーズ1の頃とはまた異なる深みと説得力をもたらしていると思う。
冒頭で「遥かな期待」と書いたけれど、“ニュー・マイ・ノーマル”は感謝と覚悟の曲だ。この曲で歌った<キリが無い迷い達と/ポピュラーミュージック/僕らの真実を抱いて/枯れない何かをこの先も探していたい>――その言葉通りの活動が、ここから始まった。
02. ダンスホール
華やかに鳴り響くホーンセクションをはじめ、歯切れよくリズムを刻む楽器陣の演奏と力強く打ち鳴らされる太いキックが心も身体も目覚めさせ、聴いているだけで自ずと心が弾み出し、ステップを踏ませてくれるような、躍動感溢れる鮮やかなダンスポップ。ディスコ/ファンクを基調とした楽曲は、とても晴れやかな多幸感がこれでもかとほとばしるものではあるけれど、そこにあるのは100%ハッピーで楽観的なカラッとしたメンタリティではなく、生きてゆく中でどうしたって抱えてしまう不安や痛み、悲しみもしっかりと書き込まれている。そしてその上で、<幸せを見逃しちゃうけど/きっと結構ありがち/足元にあるもの>、<悲しいことは尽き無いけど/幸せを数えてみる>といった、それぞれが日々抱え込んでしまう不安に対してちょっとした、けれど確かな処方箋となるような言葉が並んでいるところが、Mrs. GREEN APPLEがMrs. GREEN APPLEたる所以だと思う。特に<メンタルも成長痛を起こすでしょう>というラインは秀逸だ。今がめちゃくちゃ幸せだから楽しい曲を作るわけではない、むしろその背景に日々どうしようもなく抱え込んでしまうものがあるからこそ、ミセスは“ダンスホール”を歌い鳴らす。そもそもファンクやディスコといった音楽は、歴史的に理不尽で困難な日々を生き抜くためのマインドとエネルギーを求める人々によって生まれた音楽であり、そこともちゃんと符合している。だからこそ、この“ダンスホール”は今もなお、私達の日々を照らす揺るぎない光を放っている。<結局は大丈夫/この世界はダンスホール/あなたが主役のダンスホール>、<この愛を歌い続ける>と力強い声音で歌い上げる、そこに宿る意志は、フェーズ2を走り出したミセスの決意そのものだったと思う。
03. Soranji
“鯨の唄”や“umbrella”、あるいはそれこそ今回、デビュー前にライブ会場限定で手売りされていた最初のミニアルバム『Introduction』からリアレンジを施して本作に収録された“慶びの種”など、ミセスは初期から「生きるということの深淵」を見つめるバラードを紡いできた。言うまでもなく、それが大森の音楽表現の根幹にあるテーマだからだ。彼は現在、誰もが羨むような華やかな舞台で活躍しているけれど、苦悩なく人生を謳歌してあの場所に立っているわけではない。むしろ巨大な孤独と哀しみ、葛藤を抱え、創作の過程でそれに打ち勝ち生きるための希望を自身の中から掘り起こし、音楽として表現していくことによって、ここまで進んできた人だ。大森にとって音楽を創作するということは暗闇の中で一筋の光を探すような、そしてそこで見つけた光を最大化するべく全力を注ぐような、そのような行為だと私は思う。それは今に至るまで変わっていない。
“Soranji”は、そんなMrs. GREEN APPLEという表現の、大森元貴という表現の、最も根源にあるものが表出したとてもヘヴィなバラードであると同時に、終盤に向かってクワイアが前景化していく展開に表れているように、生きることへの願いと、苦しみを抱えながらも懸命に生きる存在に対する切なる祝福を託した本質的な讃歌だ。リリース当時、“Soranji”の制作を振り返って大森は「自分の一番深いところ、どん底まで潜っていった時に自分から何が出てくるのか――それは果たして希望なのか、それとも希望とは異なるものなのかを知りたかったし、それを曲にしたかった。自分の中にまだ希望があるのか、何か光を見出す力がまだあるのか、そういうことを誰よりも僕自身が確認したかったし、それを見つけたかった」と語ってくれたのだけど、まさにその言葉通りの楽曲だと思う。そして、そうやって心の底まで潜った果てに<だから生きて、生きて欲しい>とあなたに強く歌いかけることができたという事実は、その後、大きな快進撃をもたらす楽曲群を生み出し精力的に世の中に出ていくにあたって、大森自身の揺るぎない支えとなったのではないかと思う。
04. 私は最強
映画『ONE PIECE FILM RED』において、ウタ(Ado)が歌う劇中歌として提供した楽曲のセルフカバーであり、実はフェーズ2において一番最初にレコーディングされた曲でもある。提供時からセルフカバーすることを見越して、ウタ・バージョンとミセス・バージョンの双方を同日に録っていたという。つまり休止以来、本当に久しぶりにみんなでスタジオに入ってレコーディングしたのがこの楽曲であり、とにかくミセスとして音を合わせることができる嬉しさ、楽しさがとても強くあったと、彼らはその日のレコーディングを振り返っていた。実際、ストリングスも重要な要素として配されてはいるけれど、それ以上にバンドサウンド自体が放つエネルギッシュな躍動感ときらめきが、そんなメンバーの心情を物語っているようにも感じる。
はじめからウタ(Ado)が歌うものとして書き下ろされた楽曲ではあるが、大森自身も「パッと聴いた時に『あ、ミセスだ!』ってなることを目指して書いた」と話していた通り、これぞミセス!と言うべきポイントが随所に散りばめられている。特に、これだけ高低差も激しくテンポも速いメロディにきっちり情感を入れ、カタルシス満点に歌い上げることができるのは、そのシンガーとしての稀有な特性を踏まえた上でのソングライティングがなされているからこそだと言えるだろう。
<私は最強>と高らかに歌うフレーズには、何よりも自分自身を奮い立たせる意志がある。夢に向かって突き進もうとする時、未知の場所へと新たな一歩を踏み出そうとする時、人は誰しも多かれ少なかれ不安や怖さを覚えることはあって、だけどそれを恐れることはないんだ、そんな中でも<いつかの夢>を、<忘れぬ誓い>を胸に掲げてともに進んでいこう、<アナタしか持ってない/その弱さが 照らすの>と歌うこの歌は、だからこそ最強のエールソングとなった。
05. ケセラセラ
2023年のレコード大賞を受賞、現時点で6億回再生を突破する代表曲のひとつであり、ある種、フェーズ2のミセスの立ち位置を決定づける1曲になったと言ってもいい曲だと思う。ミセスの楽曲は初期の頃、大森がまだティーンエイジャーの頃に書いた楽曲群からして「人生何周目?」と言いたくなるような、いい意味での老成感を放つリリックも多かった――つまり当初から世代を問わず訴求する要素と深みを宿してはいたけれど、とはいえ彼らのリスナーは圧倒的に10代が多かったし(ライブ会場を出るとお迎えの保護者の姿が多数見られるのはひとつの風物詩だった)、パブリックイメージとしても「若者向けの音楽」と捉える向きが強かったように思う。けれど、“Soranji”からの“ケセラセラ”の大ヒットによって、ミセスは名実ともに全世代に浸透する国民的ポップアーティストとなった。
この曲は、大きな夢やドラマを描くのではなく、日々の生活の中でひとり抱え込みがちな苦しさや寂しさをそっと掬い上げ、寄り添うような楽曲だ。音楽的にも、ハープシコードやピチカートの音色が印象的に配された冒頭に導かれ、アコースティックギターやパーカッションなどの素朴でウォームな響きが彩る前半部からスケールの大きなオーケストラ・アンサンブルへと展開するサウンドデザイン、そしてセクションごとのビートチェンジなど、一度として同じアプローチが繰り返されないドラマティックなアレンジが取られているけれど、有機的に繋がっていくその豊かな変化こそが、日々変わりゆく日常の風景を表しているようでもある。綺麗なハッピーエンディングを描くおとぎ話とは異なり、解決することのない気持ちや問題を抱えながら人生は続いていく。<私を愛せるのは私だけ>と歌いながら、けれどそれが何より難しいことだと知っているからこそ、ミセスはリスナーの代わりにその言葉を歌う。軽やかに、でも確かな強さを持って「ケセラセラ=なるようになる」と歌いかけるこの曲は、日々を生き抜くおまじないのように、お守りのように、響く。
06. Magic
2023年発表の4thアルバム『ANTENNA』の2曲目に収録された楽曲であり、コカ・コーラCoke STUDIOキャンペーンソングとして、小学生の頃からコカ・コーラを愛飲してきたという大森がその愛を含めて書き下ろした楽曲。パワーコードを掻き鳴らすギターと様々な人が参加したコーラス以外は全編プログラミングのビートやシンセによって構成されているエレクトロニックな楽曲だが、イントロでフィドルのような音色のフレーズがリフレインされていたり、リズムトラックにもティンパニーを彷彿させるサンプル音源が使用されていたりと、全体にとてもプリミティヴかつシンフォニックな印象を受ける。当時はミセスにとって初めてのドームライブ(2023年8月12日&13日の2デイズにわたり埼玉・ベルーナドームで開催された「Atlantis」)を控えたタイミングだったこともあり、このバンドとしては珍しくライブをイメージしながら、欧米のスタジアムアーティストが奏でるような楽曲をMrs. GREEN APPLEとして歌い鳴らしたらどうなるんだろう?という好奇心のもとにワクワクしながら取り組んだという。しっかりと鳴らされる低域のシンセベースと地を蹴るような躍動感溢れるファットなビートに乗って、キラキラと万華鏡のごとくきらめく景色がどこまでも伸びやかに広がっていくかのようなこの楽曲は、ミセスが音楽というものに見出している光――それこそ想像力で現実を塗り替える「マジック」を体現しているかのようでもある。<優しい人で居たいと痛いが止まんない>、<苦しい意味 忘れたBusyな君だけど>、<いいよ もっと自由で良いけども/そう簡単には行かないよな全部>と歌うラインは実にミセスらしいなと思うとともに、<いいよ もっと気楽で良いよ><いっそ楽しもう Magicで日々を>と衒いなく真っ直ぐに歌い鳴らすことができたのはフェーズ2の彼らならではだろう。
07. ANTENNA
4thアルバム『ANTENNA』のタイトルソングにしてオープナーを担った楽曲。推進力の強い4つ打ちのキックを基調に、雄大でエナジェティックなバンドサウンドがどこまでも天高く駆けてゆくような、アップリフティングな一曲だ。『ANTENNA』というアルバムは、ミセスのアルバムの中でもかつてなく自由に、特定のテーマや課題を自らに課すことなく、その時の自分達の感覚や興味が赴くままに音楽を紡ぎ奏でることを楽しみながら作り上げていった作品だが、この曲にはまさに、ここから始まる自由な冒険に対する胸の高鳴りが音楽へと結実していくような、フレッシュな衝動と童心のように無垢な遊び心が息づいている。とはいえアンサンブル自体は緻密に構築されており、特にギターは繊細で複雑なプレイが求められる曲でもある。“ライラック”で一躍、若井のギタープレイが脚光を浴びるようになったけれど、この曲でもタッピングをふんだんに用いて「アンテナ」を想起させる印象的なフレーズを披露している。複数の奏法を織り交ぜつつユニークなフレージングを奏でていくギターワークはかなり難易度が高いものだけど、レコーディングでもパンチイン(編集)することなく丸っと弾き切ったというエピソードに表れているように、若井と藤澤のプレイヤーとしての技量/表現力の向上は、確実にフェーズ2の楽曲群の基盤をアップさせている。
光が降り注ぐようなサビ頭で歌われる<愛してるよ ホープレス>というラインについて、大森が語ってくれたことをここに書き記しておこうと思う。「希望があるから高らかに歌うわけではなくて、希望がないことを高らかに歌えたら、それだけ楽しいことはないだろうなって。だって、希望なんてあるかどうかわからないし、無責任に『ある』なんて言えない。……本当に自分を助けてくれる言葉って、僕は辛辣な言葉だと思ってるんですよ。だからこそホープレス、希望がないっていうことを愛してると言ってみよう、掲げてみようという。そこが始まりな気がするんですよね」
08. ナハトムジーク
2024年1月以降、この『10』に至るまで、ミセスは17ヶ月の間に11のシングルをコンスタントにドロップし続け、そのすべてをトップチャートに送り続けるという驚異的な勢いで活動を続けているが(とはいえフェーズ2開幕から『ANTENNA』までのタームに関しても、16ヶ月で20曲を出している計算になるわけだけど)、いわばその起点となったのがこの“ナハトムジーク”。曲調的には“Soranji”に連なると言ってもいい重厚で荘厳なバラードではあるけれど、“Soranji”が暗闇の中から希望を掘り起こし、生きるということへの願いと祝福を切に託した讃歌である一方で、“ナハトムジーク”は、優しくありたいし愛し愛されたいのにどうしようもなくすれ違い、間違いを繰り返しながら生きる<不器用な/愛しいボンクラ>である我ら人間の在りようを、日々をただ見つめ、そこに静かに積もりゆく心の澱をそっと掬うように歌うかのような楽曲だ。個人的には<間違いばかりの今日をまず愛そうか>、<矛盾こそ生き抜く為の美だ>と歌いながら、<愛したい/最期まで信じたい>と歌われる、その一節にすべての想いが託されているように感じる。
クレジットを見るとストリングスは1stバイオリン6人+2ndバイオリン4人+ビオラ3人+チェロ2人の15人編成という、ポップスにおいては珍しい、そしてミセスの楽曲群の中でもひときわ大規模な編成で組まれており、実際、その重層的な響きと藤澤のピアノの調べがアレンジの主体となっている。前半部にはASMRのトリガーとなるような音が配されていたり、アブストラクトな打ち込みのビートが不安定な日々を表すかのように響いたりと、サウンド自体がリリックに宿る心情を雄弁に描き出していく側面も大きい。そういった、歌の本質を表す上での必然的なアプローチとしての音楽表現は、フェーズ2のミセスにおいてより深められている点だろう。
09. ライラック
もはや説明するまでもない気がするが、2024年4月にリリースされて以降、とにもかくにも爆発的なロングヒットを続けている楽曲。Billboard JAPANストリーミングチャートにおいて、7月16日現在、63週連続トップ3入りという前人未到の記録を更新中という凄まじさだが、恐ろしいのはこの勢いが衰える兆しが一向に見えないところ。昔と今とではチャートの構造自体が大きく変わっているので一概には言えないけれど、とはいえ間違いなく、日本のポピュラーミュージック史に残るモンスターヒットと言っていいだろう。
「僕らが書いてきた青春ソングみたいなものを、大人になった僕らがもう一回やったら、今の僕が書いたら、どんなものになるんだろう」という視点がこの曲の制作の取っ掛かりだったと大森も語っていたけれど、自分が“ライラック”を初めて聴いた時に思ったことは、自身最大のヒット曲である“青と夏”に今のミセスとして正面から対峙し、更新するような、本当に見事な楽曲を作ったなということだった。そうやって自身のシグネチャーモデルを自身で上書きしていくというのは実はとても難しいことだけど、ミセスは随時、意識的にそれを果たしているように思う。
いわゆるミセス節満載と言っていいアッパーで爽快なバンドサウンドと、随所に大森ならではのユニークネスを感じさせるメロディ。けれど、それが決して過去への憧憬や焼き直しではなく、“青と夏”から約6年という歳月の中でちゃんと人生を積み重ねてきた、その先に歌い鳴らされたものになっている点が、この曲の素晴らしいところだ。極めてテクニカルなギターのフレージングにしても、4つ打ちや8ビート、シャッフルを巧みに使い分けつつ、変拍子セクションも組み込みながらドライヴさせていく楽曲展開にしても、そしてもちろん歌詞にしてもそう。かけがえのない青春のきらめきを確かに映し出しながらも、過ぎてゆく日々、いつまでも拭い去ることのできない不安と疎外感、どうしたって増えてゆく傷を歌い、その上でラスト、<あの頃の青を/覚えていようぜ/苦味が重なっても/光ってる><僕は僕自身を/愛してる/愛せてる。>と確かな声音で歌われるフレーズは、このバンドの歴史を追ってきたひとりとしても、とてもグッと来る。
10. Dear
夜明けを告げる鐘のようにどこか厳かに響くピアノの音色から、大きな朝陽が広い空一面を染め上げていくかのごとく雄大な景色を切り拓くイントロに導かれて始まる、ミドルテンポのナンバーに確かなる胸の高鳴りを託した楽曲。躍動感と深い響きを兼ね備えたドラムが全編を支え、ストリングスやコーラスによって構成される有機的なアンサンブルが楽曲に豊かな広がりと奥行きを与えていく。とてもドラマティックで壮大な楽曲ではあるけれど、フォーカスは終始、人生という遥かなる時をひとり歩く小さな存在であるあなたに絞られていて、その傍らでそっと見守るような、そっとあなたの幸福を祈るような、愛とやさしさに満ちた眼差しがある。意気揚々と未来に向かうエールソングというよりも、時に不安や心細さ、喪失や無力感を抱えながらも今ここに生きる生命を抱きしめるような、あなたが生きていることそのものに価値があること、そして、そんなあなたのことを愛する存在にいつかきっと出会えることを歌っているような、そんなふうに感じられるとてもあたたかな包容力を湛えた楽曲だと思う。
サビで歌われる<幼さでパンを作って/大人びてジャムを塗ろう>というラインがとても印象的だ。子供のような無邪気さや純真な好奇心、挑戦心を失わないことと、大人になって思慮を巡らせたり、相手を思いやったりすることができるようになること、そのどちらもが生きていく上で大切で、そして素敵なことであるということを示唆しているとともに、自分自身と向かい合った上で表現=楽曲を生み出していく音楽家であるという核を持ちながら、同時に大勢の人に響かせることを前提に楽曲を創造し世に放っていく「ポップソング」の作家としての大森の矜持を歌っているようにも感じた。
11. コロンブス
BPMは決して速くない、むしろ落ち着いたテンポでマイペースに日常を歩いていくようなテンションの楽曲だけど、弾けるようなリズムセクションの響きや、藤澤のフルートも含めたホーンセクションの快活な音色がワクワクとした気持ちを掻き立てる。重くなりがちな足取りを軽く、俯きがちな心をふっと上昇させるような仕掛けがある曲だ。
この曲のMVは、公開と同時に映像の内容に関して大きな批判を受け、それを真摯に受け止めたバンドは経緯説明とともに謝意を表明し、MVを取り下げた。かつてヨーロッパ中心史観の中で英雄扱いされていたコロンブスは、現在、彼が為した事実に基づき、非人道的な侵略者/奴隷商人として評価を改められている。しかし、大森のステートメントに「決して差別的な内容にしたい、悲惨な歴史を肯定するものにしたいという意図はありませんでした」とあったように、この曲自体に植民地主義や奴隷制度、人種差別を肯定、容認する意図は微塵もないだろう。事実、<文明の進化も/歴代の大逆転も/地底の果てで聞こえる/コロンブスの高揚>というラインは、MVにおける映像表現が与えた印象とは異なり、むしろ文明の“進化”や歴史、正義を一方向から定義することの危うさや、人間が繰り返し犯し続けてしまう過ちを示唆するものとしても解釈できる。前述のステートメントにあった「『コロンブスの卵』というキーワードから制作に取り掛かり」との言の通り、この曲は「コロンブスの卵」、つまり、一見簡単そうなことや今となっては広く知られていることでも、最初にそれを思いついて実行するのは難しい、ということわざから転じて、日常のふとした瞬間に芽生える好奇心を、まだ見ぬ何かを求めて踏み出していくことの勇気を、そして、後悔や哀しみを抱えながらもあなたに手を伸ばすことを、大切にしようと歌いかける楽曲だと思う。その上で、この楽しげにスウィングする曲調の中でふと歌われる<「ごめんね」/それは一番難しい言/大人になる途中で/僕は言えなかった>、<あなたとの相違は/私である為の呪いで/卑屈は絶えないが/そんな自分を/本当は嫌えない>というラインが胸に深く刺さる。
12. アポロドロス
2024年夏、パリオリンピックのタイミングでテレビ朝日系列2024スポーツ応援ソングとして制作された楽曲。衝動とアグレッシブさを宿したヘヴィかつ強い疾走感を放つパンクロック的なバンドサウンドと、どこかスリリングなニュアンスを孕んだストリングスが渾然一体となって展開する前半部から、3拍子の華やかで流麗なワルツパートを印象的に用いながら展開する後半部へと、1曲の中で鮮やかに表情を変える組曲的なアプローチが採られていて、緊迫と緩和、シビアな闘いとあたたかな祝福のどちらもが鳴らされているように感じられる楽曲だ。実は3拍子のセクションは10年近く前、リオデジャネイロオリンピックに向けて曲を書こうと思い立って作ったものが、歌詞もアレンジもそのままに組み込まれているという(当時、実際にスタジオに入ってバンドで合わせたこともあるらしい)。大森は「当時の自分の夢を叶えてあげなきゃと思って、今僕が書くものと当時のものをガッチャンコしたのがこの曲なんですよ」と語ってくれたのだけど、曲調もリズムもサウンドのフォルムもまったく異なるセクションをシームレスに、奇を衒った突飛なものではなく「楽曲のストーリーを表すための必然的な展開」として響かせる手腕は見事。こういった極めてドラマティックな楽曲デザインを大胆に、緻密に構築し、ポップソングとしてナチュラルに聴かせることができるのは、ミセスのひとつの真骨頂と言っていいだろう。
まさに10年前に書いたという、<綺麗な花もいいけど/傷をも誇れる花になろう>というフレーズがとてもいい。勝ち負けというものがはっきりと存在するスポーツの世界において、あるいは、様々な試練が襲いかかる人生において、誰しもが胸に掲げることができるラインだと思う。この曲の始まりと終わりに奏でられる、シンプルで繊細なピアノの単音フレーズは、ひとり真摯に闘い続ける人にそっと寄り添うかのように響く。
13. familie
肩の力が抜けた風通しのよさを感じさせる、リラックスした朗らかさを宿したとても心地のいい楽曲。アコースティックな質感を大切に湛えていること含め、メンバーが車座になって微笑み合いながら演奏している光景が目の前に浮かんでくるような、そんな距離感の近い親密なぬくもりが伝わってくる。イントロのリズムセクションには、大森自身がフィールドレコーディングしたという車のエンジン音や足音が混ぜられているなど、ちょっとした遊び心も織り込まれていたり、常に流れゆく車窓のように人生にも同じ景色が二度とないのと同じく、ギターのコードやフレージングに関しても1番2番3番ですべて変化していたりと、さりげなく様々な創意工夫がなされている曲でもある。この数年のミセスは間違いなく怒涛のスケジュールをこなしながら楽曲制作を行なっているはずだが、そうやって様々に創意工夫しながら曲を作ること、レコーディングすることをメンバー自身が心から楽しめていることが、実は今のミセスの一番の強さなのかもしれないなと思う。
Honda 新型FREEDのCMソングとして、CM制作チームから送られた仮の映像を見て書き下ろし、“familie”=ドイツ語で「家族」を意味する言葉が冠されたこの曲は、ずっと昔から傍らに寄り添ってくれていたかのような懐かしさとあたたかさを感じさせるポップソングではあるけれど、<僕に見せたい/景色がある/いつか自分を/認めてあげられるかな>、<時代の車輪に/いつしか一部となり/呑まれてゆく>といったフレーズに表れているように、生きるということに思いを馳せる時に抱く少しの切なさとやるせなさもちゃんと滲んでいる。<心が帰れる場所/愛しのファミリエ>という言葉で終わる本作は、高らかに掲げていくというよりも、胸のポケットに入れていつも一緒に歩いていきたい、そんな一曲だ。
14. ビターバカンス
スッと息を吸い込むブレス音、そして焦燥感に駆られるかのように連打されるピアノの音色と前のめりなドラムのビートに乗ってスタートし、変拍子を仕込みつつ4つ打ちへと移行するBメロから、<辛いことばっかじゃないって事を/僕に教えたい 教えたい 教えたい>と軽やかに、楽しげに歌い上げるサビへと展開する。愉快に痛快に跳ね回るリズムやカントリーテイストのギター、フィドルのような音色が響いてくることも含め、全体にアイリッシュパンク味のある楽曲であると同時に、1番終わりでは若井のギターソロが、2番終わりでは悠久の時を感じさせる笛の音やガムラン的なカナモノの音と絡み合う藤澤のピアノプレイが聴こえてくることをはじめ、とにかくどのセクションのどのパートも息つく間もなく弾き倒す勢いで演奏されていて、器楽的にもとても聴き応えのある楽曲である。そして、そういった様々な楽器の音色、表情豊かなプレイによって描き出される彩り豊かな景色によって、世界を自由に旅する“バカンス”を彷彿させるところがとても素敵だ。ひとつ前に収録されている一聴するとシンプルにも思える“familie”もそうだけど、近年のミセスの楽曲は、歌メロの強さも含めてスッと耳に飛び込んで記憶に残るポップスとしての強度をしっかりと担保しつつ、繰り返し聴けば聴くほど気づきやあったり、見える景色が広がったりということが起きてくる音楽的な奥行きがあって、飽きることなく何度でも聴きたくなる造りになっている。言うまでもなく、それを可能にしているのはメンバー自身の発想力とプレイヤビリティの向上だ。だからこそ、ミセスの楽曲群はどれも一過性のブームで終わることなく、ロングヒットを続けているのだろう。
15. ダーリン
NHK「18祭」のテーマソングとして、「本音」をテーマに全国の18歳世代から寄せられたメッセージ動画/パフォーマンス動画を見た上で書き上げた楽曲。1番は基本的にピアノと歌のみという構成で、藤澤が奏でる繊細でやわらかな音色がそっと孤独な心を彩り、寄り添うかのように響く。そして、そこから大きくサウンドスケープを拡大し、バンドとストリングスが力強く、そこにある確かな鼓動を勇気づけるように、懸命に生きる今を讃えるように、一人ひとりの未来を言祝ぐように、遥かなる景色を臨むようなスケールの大きなサウンドを響かせていく、まさにアンセムと呼ぶにふさわしい楽曲だ。「苦しかったり寂しかったりする気持ちも、楽しい気持ちも嬉しい気持ちも、相手がいてこそ感じることが多いと思います。それは、決して『ひとり』じゃないということの証でもある」――そんな想いを込めてつけられた、“ダーリン”=愛おしい人、というタイトル。大森の歌唱も、一語一語しっかりと愛おしいあなたにその声を、想いを届ける意図をもってとても強く響く。
<悲しくて堪らない 人はとても弱いから>、<みんなと同じだからって/僕の 私の/ワダカマリが楽になるわけじゃない>、<やるせない日々の膿は出切らないけど/ねぇ 私の私で居てもいいの?>――かつて「僕の作る音楽は、僕のSOSなんでしょうね」と語った大森は、ある種、自身の孤独や絶望の発露として、そしてそれを掬い上げ、そこにある不安や痛みや悲しみをやわらげるためのものとして(おそらくは今も)音楽を紡ぎ続けているところがあると思うのだけど、昔と少し変わったことがあるとするならば、フェーズ2の彼は、もしかしたら自分には大事な何かが欠けていたのではないかというシビアな自問を経て、愛というものの在り方や「自分はあなたに何を与えられるのだろう?」、そして「与えるとはどういうことなのだろう?」ということを、より深く、よりリアルに考えるようになったのではないかと思う。この曲の歌詞や歌唱からはそういった、人生の歩みを重ねた今の彼ならではの表現を感じる。
最後のサビで歌われる<darling 本当の音を聴いて>というラインは、「あなた自身の心の中にある本当の声を聞いて、本当の気持ちを大切にして、あなた自身として生きて」という、ミセスからの切なるエールとして響く。
16. クスシキ
なろう小説から生まれ、二次創作もさかんに行われている人気小説『薬屋のひとりごと』を原作とする同名TVアニメの第2期第2クールのオープニングテーマとして書き下ろされた楽曲。冒頭から覚醒を促すようなバンドサウンドがガツンと迸るイントロを経て、ビートチェンジを細かく多用しながらめくるめく情景を鮮やかに描き出していく、とても刺激的な一曲だ。時に衝動も露わにアグレッシヴに疾駆したり、時に心も身体も思い切り踊らせるかのように楽しげにバウンドしたり、シリアスな表情で突き進むかと思えばミセスらしいチャームがきらりと光ったりと、ジェットコースターのように展開する様は聴いていてとてもワクワクさせられる。
ミセスの制作は基本的にDTMで割と精緻なデモを作り上げた上でプリプロ〜レコーディングへと進むことが多いはずだが、この曲に関しては「デモを作ってメンバーに渡してたんだけど、なんかピンとこなかったんで、リハーサルで大工事しますって言って、みんなでスタジオで作り上げた」という大森の言の通り、ゲストミュージシャンも含めてバンド全員でスタジオで実際に音を鳴らしながら、その場で発せられるアイディアや互いのプレイに触発され合いながら、アレンジを構築していったという。ただ、だからと言って演奏しやすいシンプルなアンサンブルになっているかといえばまったくそうではなく、前述した通りビートチェンジも多いし、アクセントになるコードが随所に散りばめられている点も含め、かなり緻密かつ攻めたアレンジになっているところが面白い。二胡や琴のようなオリエンタルな音色が忍ばせられていたりするのは作品からのインスパイアだろう。
勢いよく展開するサウンド自体に耳が持っていかれがちだけど、その中でふっと飛び込んでくる<「あなたが居る」/それだけで今日も/生きる傷みを思い知らされる>というラインが印象的。どんな曲にもこういった考えさせられる一節を差し込んでいるところが、どれほどのヒットを果たしてもミセスの楽曲群が消費されないひとつの理由でもあると思う。
17. 天国
思わず息を呑んで聴き入ってしまうような、張り詰めた糸のような緊迫感を孕んだ、厳かなピアノの響きと大森の歌、そして静謐の深淵に実は多くのものが蠢いていることを想起させるASMR的なテクスチャーで構成された冒頭。ヴォーカルトラックは頭からずっとダブルで重ねられているが、特に1サビで大森が歌うメインの歌よりもかなり低域で、それこそ地の底から聞こえてくるうめきのような声でユニゾンするもうひとつの歌は、「愛」と表裏一体にある「憎」の存在を示唆しているかのようだ。
大森が菊池風磨とともにダブル主演を務めた映画『#真相をお話しします』の主題歌として書き下ろされた楽曲であり、“Soranji”とはまた異なる形で、ミセスの一番根幹にある暗闇が表れた楽曲だと思う。“Soranji”では最終的に、その暗闇の底で見つけた微かな希望の光を掘り起こし、最大化するところまで持っていったけれど、この“天国”は、大森自身が「救いがあるのかないのかわからない、希望があるのかないのかわからない、そういう曲を素直に作りたいと思った」と語っていた通り、その暗闇自体をそのまま掬い上げて音楽にしたかのような楽曲だ。決して美しく綺麗な側面だけではない、「愛する」ということに伴って生まれる複雑な想い。どうしたって割り切ることのできない感情。「愛したい、大切にしたい」という強い想いがあればあるほど、時に「赦せない、大切にできない自分」に対する葛藤や虚無、哀しみも生まれていく。それはきっと、人に対しても、生きるということに対してもそうなのではないだろうか。この曲の終盤、時に声音を震わせながら歌われる絶唱は、その狭間から生まれてくる叫びのようにも聴こえる。
暗闇をそのまま掬い上げて音楽にしたかのような楽曲、と書いたけれど、それでもこの曲はラスト、転調を繰り返しながら上昇していく歌と、その声を赦し包み込む聖歌のようなコーラスとともに、光溢れる世界を描き出していく。そこにはミセスが音楽を紡ぎ奏でる本質的なアティテュードが表れているように思う。
18. breakfast
『めざまし8』の後継番組としてスタートしたフジテレビの『サン!シャイン』に書き下ろした、いわば“ダンスホール”以来となる朝の情報番組のテーマソングとして作り上げた楽曲。キラリときらめく音を合図に、4つ打ちのビートに乗って展開していくエレクトロポップから、ファンキーなラインを躍動感たっぷりに演奏するベースのプレイを架け橋に、カッティングギターや生ドラムに近い音色を混ぜながらより有機的なディスコチューンへとシームレスに移り変わっていく。ラジカルな転換というよりもいわばちょっとしたサウンド/アレンジの表情の変化ではあるけれど、とはいえその効果は絶大で、夜が明け、また日常という現実へ踏み出していくサウンドトラックのようになっているのが見事だ。
最近の取材で大森がこの曲について、「<醒めない夢も/情けない現実も/ただ景色になっていく>というワードが個人的にすごく好き。その善し悪しというものを明確に提示しないというのは、今年に入ってからのひとつのルールとしてあるのかもしれない」とした上で、「この世界をどう捉えるかはあなた次第だよっていうのは、純然たる事実だから。だからこそ、変な改変を加えないっていうのは最近、歌詞を書く上で大事にしてるかもしれない」と語っていたのがとても印象に残っている。もちろんミセスの楽曲は昔から安易な答えを提示するのではなく、聴く人一人ひとりがそれぞれに思考を巡らせずにはいられないような、問いかけるような筆致の歌詞が多かったけれど、近年の状況を客観的に捉え、今のMrs. GREEN APPLEという存在が持っている巨大な影響力を自覚した上で、改めて真摯にポップミュージックを歌い鳴らすことの責任と向かい合っているのかもしれない。
<冷めないうちにあったかいご飯を食べよう>と歌うサビがとても好きだ。大森は以前、「僕らは圧倒的に希望を歌うから強いのではなくて、圧倒的な絶望を握っているから強いんだという自負がある」と語ってくれたことがあるけれど、闇を知っているからこそ眩い光を、孤独を知っているからこそあたたかな愛を、ミセスはずっと歌い鳴らしている。その上で今、こういう日常の景色に寄り添う曲が生まれたのはとても素敵なことだと思う。
19. 慶びの種
メジャーデビュー前夜の2014年、自主盤としてライヴ会場限定で販売されたファースト・ミニアルバム『Introduction』。そのシークレットトラックとして弾き語りという形で収められていた楽曲を、このたび、オーケストラアレンジで完成させてレコーディング、収録したのが、この『10』を締め括る“慶びの種”だ。ちなみに、2020年=5周年のタイミングでリリースされたベストアルバム『5』の1曲目を“スターダム”が飾っていたのをはじめ、『Introduction』に収録されていた他の楽曲群はすべて、後に再録され、メジャーデビュー以降の作品群に収められている。
ミセスの楽曲で管弦楽のアンサンブルが響いてくることは珍しくない、むしろ、普遍的なテーマを歌うからこそクラシック音楽の形式を引用することは、もはや彼らの音楽のひとつの特徴にもなっていると言っていいけれど、この曲はその中でも一際大規模なフルオーケストラ――具体的にはフルート、ピッコロ、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、ハープ、ティンパニ、そしてストリングスが招かれ、バンドとともに豊かな響きを奏でている。「きっと『Introduction』の時も頭の中ではこういう規模で鳴っていたんだけど、当時の自分はそれをアウトプットできなかった――どう伝えていいかもわからないし、どう表現していいかもわからない中で、とりあえずアコギを握って弾いて歌ったっていう感じだったんだと思う。だからある種、報われてよかったなって思います」と大森は語っていたが、音楽的なスキルという意味合いのみならず、歌われていることに関しても10年を経てのひとつの答え合わせになっているのではないだろうか。ミセスが歌っていることは最初期の頃から本質的に変わっていない――それこそミドルティーンの頃から大森は生きることの真理を突く歌詞を綴っていたわけだけど、でも、この10年の間に彼ら自身が実際に経験し、乗り越えてきた葛藤が、哀しみが、挫折や後悔が、そして、変わらぬ孤独の中で確かに手にした愛と慶びの実感が、現在のミセスの表現に大きな説得力と豊かな奥行きを与えている。あの頃の彼らが心に宿した慶びの種が、音楽という希望が、確かに花開いたメジャーデビュー10周年のベストアルバムだと改めて実感させるラストソングだ。