オフコースを知るための10のキーワード。

オフコースを知るための10のキーワード。

OFF COURSEには、Fが2つ。

「もちろん」の意味である英語のオフコースの綴りは"もちろん"OF COURSE。小田和正が建築から音楽の道に進んだことからついた名前、とする説もあるが、実際は小田と鈴木の出身校、聖光学院のOB草野球チームの仲間が名付け親。


プロデビューのきっかけとなったコンテスト出場。

東北大学に通っていた小田和正、地主道夫と、東京工業大学に通っていた鈴木康博の3人の同級生たち。鈴木は仙台まで車を走らせて当時練習をしていたという。彼らの「the off? Course」(オフコース)は1969年11月2日 第二回ヤマハライトミュージツクコンテスト(LMC)に仙台エリアから出場。仙台地区の方が関東地区よりも楽だろうと思っていたが、実際はかなりレベルが高かったという。東北大会で優勝後、全国大会に出場。自信を持っての出場だったが、赤い鳥が「竹田の子守唄」でグランプリを取り、オフコースは2位だった。このコンテスト出場が転機となり、企業の就職が決まっていた鈴木は内定を蹴り音楽の道へ。小田も早稲田大学大学院へ進んだ。そして翌年1970年にシングル「群衆の中で」でデビューすることとなる。


テレビの音楽番組には一切出演しなかった。

80年代当時アーティストは『ザ・ベストテン』のような音楽番組に当たり前のように出演していたが、オフコースは違った。まったく音楽番組に出演しなかったのだ。しかし、意外にもバラエティ番組には出演しており、80年代に圧倒的な人気を誇ったお笑い番組『オレたちひょうきん族』に1984年に4人になったオフコースが全員、そして同年『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に小田和正が出演している。 またNHK教育テレビでは「若い広場 オフコースの世界」というドキュメンタリー番組が1982年1月3日に放送された。日本武道館公演の映像、レコーディングの様子、インタビュー、さらに草野球の試合までが盛り込まれた貴重な番組となっている。そして1982年9月29日にはTBS系特別企画番組として、メンバー自らが脚本・演出・監督・主演を手がけた『NEXT』が放送された。これらは2つの番組は現在はDVDで見ることができる。


ブレイクまでの道のり(その1)アルバム未収録の5つのシングル。

80年代の輝かしいキャリアが注目されるオフコースだが、デビュー直後は紆余曲折の時代だった。東芝EMIから発売された24枚のシングル盤には、オリジナル・アルバムにもベスト盤にも収録されていないA面曲が5作品も存在する。1970年4月の『群衆の中で』、1971年10月の『夜明けを告げに』、1972年4月の『おさらば』、1974年10月の『忘れ雪』、1977年11月の『ロンド』の各A面5曲。楽曲もほとんどが人の作詞作曲によるもの(「ロンド」は鈴木康博の作詞作曲)。ちなみに「忘れ雪」は筒美京平/松本隆という黄金コンビによる作詞作曲。


ブレイクまでの道のり(その2)道新ホールでのストーリー。

結成から5年後の1974年1月10日、札幌道新ホールでのコンサートで観客が13人だったことがあった。そのリベンジ公演として、1980年11月27日、再び道新ホールでコンサートを行った。そのときの公演には、800人のキャパシティに対して3万通のはがきの応募があったという。


アコースティックからロックまでの音楽変遷

メロディーやハーモニーといった要素こそ共通するものの、オフコースの初期と後期では音楽と雰囲気は異なる。初期は時代もフォークソング全盛期であり、彼らもアコースティックな音楽性が特徴だった。そして大間、松尾、清水がレコーディングやライブに参加するようになった1976年頃からバンド・サウンドが強まり、ツアー活動も充実。ライブでの再現を重視したサウンドになり、鈴木はエレキ・ギターに、小田はキーボードに専念するようになる。70年代末~80年代にはアメリカン・ロック/AOR的なサウンドが強調され、5人となったオフコースはロック・バンドであったと言える。オフ・コース『we are』(1980年)以降のミックス・ダウンを担当したエンジニア、ビル・シュネーの存在も大きいだろう。彼はスティーリー・ダンの『彩(エイジャ)』『ガウチョ』、のレコーディング・エンジニアとして、またボズ・スキャッグス『ミドル・マン』のプロデュース兼ミキシングを担当していたことなどで知られていた。


全盛期にして「解散」を示唆

オフコースの80年代初頭の傑作である3枚のアルバム『WE ARE』(1980年)、『OVER』(1981年)、『I LOVE YOU』(1982年)。『OVER』の発売のころには既に、前作タイトルと繋げて、「解散」の話題が世の中をにぎわせていた。『OVER』の内容は「心はなれて」から始まり、「別れ」を感じさせる歌詞が多い。全盛期3つのアルバムタイトルを合わせると「We are over,I love you」という、グループからファンへのメッセージとなる。


日本武道館10日間公演、チケット応募総数は約53万通

全国28ヶ所で69公演開催された、オフコース「over」ツアー。ツアー・ファイナルは当時「前人未踏」であった日本武道館の10日間公演であり、1982年6月15日からはじまり、6月30日にツアー最終日を迎えた。このツアー最終日のライブは「5人のオフコース」最後のライブとなった。このライブは、制作費、総スタッフ数、そしてチケット応募総数(約53万通)まで、全てにおいて伝説化された。


意外なオリコン・チャートの事実

意外にも、オフコースのシングルは1曲もチャートで1位を獲得していない。最高位は「さよなら」(1979年)と「君が、嘘を、ついた」(1989年)の2位。7枚目のシングル「眠れぬ夜」(1975年12月)こそ48位を記録したが、15枚目のシングル「愛を止めないで」(1979年1月・31位)以前はほとんどチャート上位にはなっていない。対してアルバムでは1位を次々と記録し、合計7枚の1位を獲得している。

■オリコンで1位を獲得したオフコースの7枚のアルバム
『We are』(1980年)、『over』(1981年)、『SELECTION 1978-81』(1981年)、『I LOVE YOU』(1982年)、『NEXT SOUND TRACK』(1982年)、『The Best Year of My Life』(1984年)、『Back Streets of Tokyo』(1985年)


理系出身の多いメンバー、一流建築士となった元メンバー。

洋楽バンドで理系といえば、まっさきに浮かぶのはボストンのトム・シュルツ。彼はマサチューセッツ工科大学在学中にギターを独学で覚え、大学卒業後はポラロイド社に就職しプロダクト・エンジニアとなっている。そしてメンバー全員が大学卒のクイーンも有名だが、中でもブライアン・メイは天文学専攻で理学士を取得している。 オフコースでは、中学・高校と野球に熱中した小田和正は、横浜の聖光学院を卒業後、東北大学工学部建築学科に進学、更にその後に早稲田大学大学院理工学研究科で建築学を学んでいる。聖光学院の同級生だった鈴木康博は東京工業大学を卒業。同じく聖光学院同級生で初期メンバーの地主道夫は東北大学の工学部金属加工学科卒業後、早稲田大学理工学部建築学科に編入学。オフコース脱退後、一流建築士として著名な存在となり、2005年には日本建築学会賞を受賞している。

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