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LINER NOTES 『ニュートンの林檎 〜初めてのベスト盤〜』椎名林檎

『ニュートンの林檎 ~初めてのベスト盤~』は、椎名林檎初の公式オールタイムベスト・アルバムである。筆者はアルバムタイトルとジャケットビジュアルを知った時、またも「最高かよ」と膝を打った。だってそうではないか。思えば多くの機知と発見に満ちた彼女の存在と音楽は、多くの音楽リスナーにとって、いつだって回避不可能なディープ・インパクトだったのだから。

ビジュアルコンセプトとアルバムタイトルは本人を交えたクリエイティブチームが、そして「リスナーから特に高く支持されている」という観点による選曲とほぼ活動の時間軸に沿った曲順は、制作チームが考案したものを椎名が承諾する形で完成した。Disc-1にはデビューの1998年から2003年までの楽曲が、Disc-2には2007年から最新アルバム『三毒史』(2019年)までの楽曲が収録されている。

“~初めてのベスト盤~"は、椎名からのリクエストで添えられたサブタイトルだという。

「これまでベスト盤を出さず、今回リリースに至った要因のひとつには、私がデビューから一度もレコード会社(※1)を移籍しなかった経緯が挙げられます。ずっとお世話になって来て、ここまで待ってもらえて、今日こうして双方納得のいく格好でリリース出来ることは本当に恵まれていると実感せざるを得ません。サブタイトルには、『ご覧ください、この蜜月関係を』という惚気が溢れ出てしまったかも知れません」(椎名)

そこで本作のリリースが決まった経緯を訊ねてみると、こんな答えが返ってきた。

「今から10年ほど前、竹内まりやさんから、『(デビューから)10年経ってもベスト盤を出さないなんて』、『これから初めて椎名林檎を聴こうとしている人が、どれから買ったらいいか分からない』『入門編がないというのは不親切』、『もっとたくさんの人々に聴いてもらうべき』というような意味の御言葉を頂戴しまして。その一言で、“お得意さん"(=愛好家)の信頼を得るための博打に毎回必死だった自分が、如何に“一見さんお断り"のスタンスを貫いて来てしまったか、はたと気付かされ、『御意。可及的速やかにお出しします』と、思いました。実際、そのようにまりやさんへお答えしたはずですが、やはり当時は相応しい曲がエントリーし切っていなかった。そこからさらに5年10年と、それまで通りコアなお客さん向けの制作に特化してしまいつつ、時間稼ぎをさせていただいたというのが本当のところです。ユーザーとしての私はもちろんベスト盤を買って楽しむこともあります。ただ、一見さん向けと呼べるダイジェストをご用意するには、あまりに曲目が乏しいように感じられて。(レコード会社から)ベスト盤の制作を提案される度に、『新譜を書くから待ってください』と訴え、その都度、受け容れてもらって来たという具合です」(椎名)

ここでそうした“一見さん"に向けて、筆者から本作で聴き取れる椎名の作風の変遷をざっくりと解説させていただこう。

まず大前提としてDisc-1に収録の大半は、彼女がデビュー前――つまり十代の頃に書いた楽曲だったという事実は押さえておきたいポイントである。それらを亀田誠治がアレンジの統率をとり、オルタナティヴ・ロックとして奏でられた時代が本作の「幸福論」から「本能」まで。そしてDisc-2の時代に入ると、斎藤ネコ、村田陽一の参加に伴い、細密でゴージャスな管弦楽のアンサンブルも加わっていくのである。

「曲に現実味と訴求力を持たせるため、適切な音色とアンサンブルでアプローチしようと心掛けて来ました。時代と土地、ターゲットを局所へ絞ったうえで、私自身の等身大の息吹も加味せねばなりません。作品ごと、より相応しいサウンドを求める姿勢はデビュー当時から今日まで全く変わっていません。その過程で亀田師匠、ネコ先生、村田先生をはじめとする匠の皆さんに出会えたこと、また今尚お付き合いいただけていることへ、感謝するばかりです」(椎名)

セカンドアルバムの『勝訴ストリップ』からエンジニアを担当してきた井上雨迩もまた重要な存在だ。本作は全編に渡って彼の手で“アップデートミックス"が施されている。十数年前に発売された旧譜も、長く親しんできたサウンドの印象はそのままに、近年の数多の名曲と並べてシームレスに堪能することが出来る点も本作の魅力のひとつだ。

「全て雨迩さんにお任せしました。当時も今も、現場一の変態でいてくださって、助かります」(椎名)

次いでフォーカスを歌詞に絞る。Disc-1の楽曲では、性急で強烈な衝動や欲求であり、酷薄なまでの渇きと諦めが歌われている。一方、Disc-2の楽曲では、格言や箴言にも似た語彙によって、言わば人生の真理が歌われている。“激しく求める"から“豊かにもたらす"へ 。こうしたシフトチェンジは、音楽家としての成長はもちろん、少女が大人の女性となり、さらには母となり、昨年(2018年)には“不惑"(40歳)を迎えた椎名が辿ってきた人生の変遷が反映されたものだと言えるだろう。

「Disc 1の大半は子供時代/リアルJKの頃に書いたものなので本当にお恥ずかしい。とはいえそうなることは当時から予測できておりました。レコーディングの時点で3、4年は経っていた甚だ稚拙な詞曲を人様にお聴かせすると自覚して居た以上、最も刹那的な勢いで仕立てなければと思っていましたから。どうか著しく未熟であることを前提にご試聴いただきたいです。そうした意味では『真夜中は純潔』までが一つの境で、『迷彩』、『茎(STEM)~大名遊ビ編~』、『りんごのうた』が、後(Disc-2の時代)へと架かるブリッジでしょうか。ちょうど初めての子育てが始まる頃でした。『実体験に見せかけた劇中劇』を書いているつもりでやってまいりましたが、それでも言葉のほうはやはり、作家自身の人生により浅くも深くもなるものではあるでしょうね。古典芸能育ちの自分としては、そんな現場のルールを紹介申し上げるうちにいつの間にか20年も経ってしまった感覚です。そしていま、ある程度の“お約束事"を踏まえていただいたうえで、これから新しい曲目/演目を通じ、お客さんと何を交換させていただけるか、楽しみに思うばかりです」(椎名)

そして本作の更なるトピックは2曲の新曲である。Disc-1の1曲目を飾る「浪漫と算盤 LDN ver.」は、宇多田ヒカルとの待望のデュエットだ。2016年の「二時間だけのバカンス」(※2)以来、およそ3年振りの共演が実現したのだ。

詞曲とベーシックトラックは椎名が手掛け、管弦打楽器の編曲は村田陽一が陣頭指揮を執った。お馴染みヒイズミマサユ機による生ピアノ、鳥越啓介による五弦ベースが冷んやりと這うなか、高らかに響くのは、名門アビイ・ロードスタジオにて収録されたロンドンフィルハーモニック・オーケストラの演奏である(※3)。繊細に構築された和声と旋律と音像によって届けられるメッセージは、言うなれば――『三毒史』収録の「急がば回れ」でも歌われていた――“人として生きる姿勢について"だ。相反する様々な要素が、交互に絡まる二人の歌声によって融解していくような、不思議な魅力を持った1曲である。

「共通の知人とヒカルちゃんとの会話のなかで議題に上った“ロマンとソロバン"という言葉。何でも、彼女が『曲のタイトルにいいかも。でも私より、ゆみちん(椎名)が得意そう』とおっしゃっていたらしく。私は“お題"に燃えてしまうタチで……難易度の高さに痺れつつも何とか仕上げた次第です」(椎名)

さらにDisc-2の1曲目に置かれた「公然の秘密」は、テレビ朝日金曜ナイトドラマ「時効警察はじめました」主題歌として書き下ろされたナンバーだ。三木聡監督作品への楽曲提供は、2010年放送のドラマ「熱海の捜査官」の主題歌「天国へようこそ」(東京事変)以来9年ぶりである。こちらもベーシックはMANGARAMAが担い、管弦打楽器の編曲を村田陽一が担当した。ストリングス・グレート栄田チーム、ヴィブラフォン・大井貴司、フルート・高桑英世、クラシックパーカッション・高田みどりらが、技巧的な超高速パッセージで激しく扇情する。椎名の十八番のひとつである、スリリング且つグラマラスな愛好家垂涎の“裏社会シリーズ"だ。

「『まじめにふざける』、『巧みにバカをやる』。三木監督にも通じることですよね。世間の気分も手伝い、時に非難や誤解をいただいたとしても、作り手が人知れずしっかり汗をかいているものであれば最後には相殺されるものですよね。また“稽古の積み重ね"という裏付けがあってこそ初めて成り立つ贅沢な遊び。こればっかりは、地道な努力を積み重ねて来た人々だけが実現できるタッチです。せっかく日常的に辣腕とやり取りしているわけですし、たまにはこうして意識的に挑んでゆきたいと思っております」(椎名)

(椎名にこう言うとすぐ否定されてしまうが)斯く言う彼女もまた、今や日本の音楽シーンにおける匠の一人に数えられる存在であることは言うまでもない。

「ベストアルバムを後回しにしてしまっていた最大の理由は、新曲を求めてくださるお得意さんが常にたくさんいらしてくれたことに尽きます。私にとって一番大切なクライアント、お得意さまのご要望へお応えするのに都度都度集中することが出来てしまっていたからでした。つくづく幸せ者です」(椎名)

本作がリリースを迎える頃も、椎名はすでに次の新しい音楽に着手しているという。「とりあえず2020年、乗り切れるか否か」と眉根を寄せた。

『ニュートンの林檎 ~初めてのベスト盤~』は、まさしくデビュー21年目を迎えた音楽家・椎名林檎の軌跡と才気を一気に味わうことの出来るパッケージである。初心者にも、愛好家にも、等しく機知と発見に満ちたディープ・インパクトをもたらすだろう。

――私たちは、何度でも新しく、椎名林檎と引かれ合う。

(内田正樹)

付記:なお、初回生産限定盤にはボーナストラックとして「丸ノ内サディスティック neetskills remix」(Disc-1)と「ジユーダム ヒャダインノリリリリ☆リミックス」(Disc-2)が収録される。前者は『(生)林檎博'18 -不惑の余裕-』のアウトロ映像で披露されたトラックで、後者は配信限定シングル「ジユーダム」(2016年)のカップリングとして発表されたトラックである。いずれも本作がCD初収録となる。


(※1)……椎名のデビュー当時は東芝EMI。2007年の株式売却時に社名変更されたEMIミュージック・ジャパンを経て、2013年から現在のユニバーサルミュージック合同会社となった。
(※2)……同年に宇多田がリリースしたアルバム『Fantôme』に収録されている。
(※3)……椎名の海外レコーディングは『三毒史』(2019年)収録の「あの世の門」で訪れたブルガリアに続いて二度目である。椎名曰く、「二十年間、充分国産に拘った。これからは必然性に応じ、どこへでも馳せ参じたい」とのこと。