般若心経の読経と共にDJ大自然のスクラッチとシンフォニックな管弦打楽器が風雲急を告げる。圧倒的な密度を誇る演奏と無機質な歌声による「鶏と蛇と豚」は、現世へと通ずる門で毒のように甘い禁断の蜜を貪り、己の五感に絶対的な確信を抱く生者のモノローグのようだ。
『三毒史』は、不惑(40歳)を迎えた椎名林檎が20周年イヤーを締め括るデビュー記念日(2019年(令和元年)5月27日)に発表する、5年ぶり6枚目のオリジナルアルバムである。
三毒とは、貪欲(どんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち)を含む、仏教において克服すべきとされる代表的な煩悩の異名だ。貪欲とは“むさぼり”、瞋恚とは“いかり”、愚痴とは“おろかさ”であり、それぞれを象徴する動物として、鶏、蛇、豚が描かれてきた。
「『三毒史』の制作は『日出処』の完成直後から始まっていたとも言えます。毎回、シングル曲を書くたび、『アルバムに於いてどんな役割を担わせるか』、気にしながら取り組むのが癖になっていますから。今回は「長く短い祭」、「神様、仏様」を書いた時に、軸が用意できたと確信していました。その後のホールツアー『百鬼夜行』(※1)、『真空地帯』(※2)も、この『三毒史』目掛けて行なっています」(椎名)
「鶏と蛇と豚」をファンファーレに幕を開ける全13曲の『三毒史』は、宮本浩次(エレファントカシマシ)の〈この世は無情〉という一声(「獣ゆく細道」)を皮切りに、「駆け落ち者」(櫻井敦司(BUCK-TICK)、「神様、仏様」(向井秀徳(NUMBER GIRL/ZAZEN BOYS))、「長く短い祭」(浮雲)、「急がば回れ」(ヒイズミマサユ機)、「目抜き通り」(トータス松本(ウルフルズ))と、一曲置きに豪華ゲストボーカリストたちが登場する。
椎名が「お互い相手の要求にはなかなか応えない気まぐれな関係性です」と笑う向井について以外は、彼女と同じ午年生まれの男たちが揃った(※3)。さらには椎名が全幅の信頼を寄せる笹路正徳、斎藤ネコ、村田陽一ら手練れの招請に加えて、「マ・シェリ」、「ジユーダム」の2曲では東京事変のメンバーも召還されている。
「全ての収録曲は唄い手を含む演奏家への当て書きのつもりです。調も、拍子も、和声も旋律も、それぞれの楽器のスイートスポットと、アルバムの流れをシームレスに運ぶという目的とが交わる一点を狙っています。だから毎度のことながら、諸要素にあまり選択肢はなく、ご参加くださった方々ありきの必然で成り立っています」(椎名)
前述の楽曲は元より、新たなBPMでアップデートされた「どん底まで」、2019年の我々の気分をスケッチした「TOKYO」、椎名の作詞では極めてレアでストレートな〈あいしている〉という表現が用いられた「至上の人生」まで、楽曲のアプローチは多岐に渡っている。アンサンブルも3名のピアノトリオやギタートリオから、40名超えのオーケストラやクワイアまで縦横無尽である。
「音楽的素養という点のみで言えば、十代、二十代の頃にもこうした曲を書けたかもしれません。でも、作詞の面では疑わしい。やはり見聞きしたいろいろを実際に経験し、この身が痛むほど実感した上で書いてみたいと思っていましたし、そのために修行しているつもりでした。近年は、ただ思い切り書いています(※4)」(椎名)
愛好家の間では『無罪モラトリアム』、『勝訴ストリップ』、『加爾基 精液 栗ノ花』を椎名の初期三部作と括る向きも少なくないが、椎名自身、『三文ゴシップ』から、『日出処』、そしてこの『三毒史』までを新たな三部作と捉えているそうだ。
「今回は『加爾基…』に近い。この世に生を受け、欲を自覚して、渇望したり、絶望したり、しかし結局自ら学ぶ人の道を書いている。抗うことの出来ない現実の時間経過をそのまま利用した作品という点では、まあ、どのアルバムにもステージにも共通しますが、『揺籠から墓場までが直接的モチーフになっている』点が、一番『加爾基…』と似ているのかもしれません。あとは『商売云々抜きにした一個人として遺すべき記録』と自覚して取り組んだ面も同じです」(椎名)
エピローグを飾る「あの世の門」は、ブルガリアのVANYA MONEVA CHOIR(※4)がコーラスを務める、椎名にとって初の海外レコーディング曲である。生後間もなく発覚した先天性の病気により、生死の淵をさまよった際の記憶から書かれているという。
「ひと頃までは繰り返し夢で見ていた光景なのに、いつの間にか見なくなり、記しておくべきかもしれない気がしたのと、本作の制作意図がちょうど合致したのだと思います。アルバムのラストに恐らく最も古いであろう自分の記憶が描かれるのは、時系列上、逆さまなようですが、あらゆる意味で今は納得できています」(椎名)
個々の差こそあれ、何時の世も音楽家は時代を描く。椎名もその例外ではないという前提に立てば、人間の普遍と不変の一端を冠した『三毒史』は、コンプライアンスや自主規制、忖度や炎上という時代のムードが彼女に「書かせた」一枚とも見立てられる。
「昨今、さまざまなメディアが台頭して来ているお陰で、例えば形骸化した習わしへ疑いを持つこともできますし、誰もがそれぞれ対等にやり合える社会になりつつあるような美点を見出しています。片や、大組織に於ける息苦しさが増して見える時など歪さを覚えてもいます。訴求力甚大なはずの地上波が、おべんちゃらしか映さないように見えたら、我々は即座に批難しますが、番組は一向に本質へ辿り着いてくれなかったりする。そういうアンバランスさが、どこかで整うのを願っていますし、いまは長い過渡期にあると信じてみたい。とか言いつつ、目の前のやるべきことを片付けるのに必死な日々、お客さん方と共有しているこの時代のこの日常を、なるべく写実的に切り取れていますように…と、静かに祈るばかりです」(椎名)
アルバム全体で一編の戯曲とも言える大作である。鋭利な批評性とユーモアによって現代と人生の刹那を記録した『三毒史』は、恐怖とも安堵ともつかない、孤独と充足が入り混じったような、奇妙な余韻を残して幕を閉じる。そしてあらためて一曲目からリピートする度に、まるで輪廻転生を疑似体験しているかのような感覚に囚われるのは、決して筆者だけではないはずだ。
――無論、新たな三部作の先に待つのは、更なる新章の始まりに他ならない。
(内田正樹)
- 正式タイトルは「椎名林檎と彼奴等がゆく百鬼夜行2015」。
- 正式タイトルは「椎名林檎と彼奴等の居る真空地帯(AIRPOCKET)」。
- 「向井氏は確か猫年」とは椎名の弁。
- 本作のブックレットには2000年に雑誌「音楽と人」誌上で掲載された、椎名の甲冑姿の写真が掲載されている。それはあたかも本作ジャケットのペガサス姿こそが、かつての彼女が目指し、満を持して辿り着いた“不惑の最終形態”であることを物語るかのように。
- ヴァーニャ・モネヴァ・クワイア。数々の合唱団の指揮者として世界にブルガリアン・ボイスの魅力を広めてきた第一人者であり、ブルガリア国営放送ラジオの音楽監督も務めるヴァーニャ・モネヴァが設立した、ブルガリアを代表する女声聖歌隊。ブルガリアの7つの地域の民謡/民族音楽を背景に、トラディショナルな要素を現代に受け継ぎ、教会音楽、カンタータ、オラトリオといった古典的音楽と現代的な音楽とをクロスオーバーさせた活動を展開している。