■ここからはMAHさんおひとりで、作品とSiMの深部を伺えればと思っています。SiMが表現してきた人間観で言っても、ご自身の人間性と人生がすべて注ぎ込まれている点で言っても、そしてジャンルも人種も何もかもが混ざっている今「ミクスチャー」という言葉自体が音楽のど真ん中を表している点においても、一旦SiMの音楽が臨界点を刻んだ作品だと感じています。改めて、ご自身ではどんな手応えを感じられていますか。
これまでの作品は「綺麗にしよう」っていう意識が強かったんだよね。レコーディングの経験自体が少なかったところから始まって、もっと綺麗に作れるよねって技術が上がっていくのを楽しんでいたのは確実にあって。だけど原点に立ち返ったというか――少年MAHはこんな綺麗なものにドキドキしていただろうか?って考えた時に、もっとささくれ立ってるもののほうが自分には響いてたはずだよなって思って。だから、リスナーが受け取りやすい綺麗さも取っ払って、自分たち自身がドキドキできる刺々しいものを作りたいと思ったの。やっぱり『THE BEAUTiFUL PEOPLE』までに1タームやり切った感もあったから、そこからの変化を果たすためには、一周した後の原点に立ち返る必要があったんだよね。
■『THE BEAUTiFUL PEOPLE』までの1タームとは、どういう闘いだったと振り返れますか。
「本来ないもの」を身につけたり生み出したりする時期だったのかな。大きなところでやるとか、多くの人に愛してもらうとか……本来の俺たちだったら興味がなかったことに本腰を入れて向かっていってた。それによって得られたものは音楽的にもバンドの規模的にも大きかったんだけど、横浜アリーナまでやれるようになって、自分自身のキャラクターもある程度説明が必要ないところまで浸透して、「もういいかな」と思えたんだよね。なら一回ぶっ壊したいなと。そういう感じかなあ。
たとえば『THE BEAUTiFUL PEOPLE』を作った時を振り返ると、青写真として想像していたものとは少し違った形で完成した感覚があったんだよね。
■というと?
俺個人としては、あのタイミングでもっと奇天烈なことをやるつもりだったんだよね。ラウドロックっていうラべリングで多くのバンドが括られていた状況に対して「これがSiMです! 以上、ラウドロックでした!」っていうトドメを刺す意味でも、音楽的にカオスなことをやろうと思ってた。ただ、アリーナクラスでのライヴを考えるタイミングでもあったから、作品として想像以上に綺麗なものになってしまった。そういう内的なギャップも感じてたし、多くの人にSiMを知ってもらった時に、たとえば俺のキャラクターとかシャウトがすごいとか、「え、そこ?」みたいなポイントに目をつける人が増えてるのも感じてたし。「俺らの武器ってそこじゃないんだけどな」みたいなギャップが作品ごとに大きくなってたんだよね。だからこそ、全部をぶっ壊す作品を作って、自分たちの思うSiM本来の姿を見せたかったのが今回で。だからね、早くアルバムを出さなきゃっていう気持ちも微塵もなかったし、曲を作るスピードとしても自然体なものにしたかったっていうのが、4年かかった要因としては大きいと思う。俺の曲はそんなに安くないし、1曲作るのも大変なんだけどなぁ……ってずっと思ってたからさ(笑)。
■身も魂も削ってきたからこそ。
そう。たとえば『THE BEAUTiFUL PEOPLE』の後に『A』を出した頃は、自分たちの状況として「もうちょっと伸びてるはずだった」っていう感覚もあって。実際それによって曲作りも迷ってたし。で、そういう違和感とか迷いを経たからこそ曲作りを変えて、メロディから曲を作る方法にシフトできた。で、歌から曲を作っていくとさ、もちろんヘヴィな音もシャウトも大好きだけど、曲によってはそのヘヴィさが必要ない場合も出てくる。だから曲に対して自然と差し引きができて、結果としてこれだけ音楽的に自由なアルバムになった感じなんだよね。考えないで作ったっていうのはそういうことで、これまでは「ここでシャウトしたほうがいいよな」とかまで考えてたんだよね。そういう意味で、自分たちにしかできない曲を丁寧に作って、それを並べただけの結果がコレだったっていう。本当に自然体だったから。
■その差し引きっていう点で言うと、今回は“FATHERS”のように光しかない曲もあるし、“BASEBALL BAT”や“Devil in Your Heart”のように明るい面も全開にして大合唱できる曲もある。SiMのパブリックイメージを超越して、自分の持てるものはすべて曲にしていいんだと思えたところが大きいと感じたんですね。そのあたりのご自身の心境の変化でいうと、何か自覚的なものはありますか。
やっぱり日常を生きている本来の自分と、SiMのMAHの乖離にはずっと悩んできていて。それが長らく俺のテーマにはなってきたと思うの。だから、どうしても本来の自分を隠そうとするところがあったんだよね。
■本名の自分をMAHの陰に隠してきた。
そう。だけどそのモヤモヤを全部吐き出せたのが『THE BEAUTiFUL PEOPLE』で。そこで吹っ切れたんだよね。本名の自分もMAHも切り離したままでいいし、乖離していたとしても、その全部で自分なんだよなって。だから、普段の生活をしている自分もMAHとして思うことも、全部を歌と音楽にしていいと思えたんだよね。あとは……やっぱり『THE BEAUTiFUL PEOPLE』以降で考えると、家庭を持ったのはデカかった。普通に考えてさ、SiMのMAHを家庭に持ち込めるはずないじゃない?(笑)
■そうですね(笑)。
何万人の前でライヴをやった後でも、家に帰ったら奥さんがいて、子供が寝てて、猫がスリスリしてくる。でもひとりだった時は、ステージを降りたまんまMAHを引きずってフワフワして、自分っていう存在がわからなくなることもあったの。だから、ひとりだった時と、家庭を持ってからの変化と……それは間違いなくいい変化だったと思う。SiMのMAHじゃいられない時間があることによって、自分に戻れるんだよね。
■そこで引き裂かれることなく、両方が俺であるという意識になれた。だからこそ今回は、ダークさとポップネス、ヘヴィさとしなやかさのコントラストが1曲1曲の中で非常に濃いものになってますよね。
そうそう。だから明るい面も曲に出てきたと思うし、実際、合唱できるようなポップさも振り切っていいと思えたんだろうね。意識してMAHから本名の自分に切り替えるんじゃなくて、自然と両方の自分がここにいる。それは音楽的にも歌の内容的にもめちゃくちゃ自由になれた要因としてデカいと思う。で、そうなると余計、SiMのMAHはキワモノになっていくのが面白くて(笑)。OFFがハッキリした分、ONの時は行けるだけ行っちゃえ、みたいな。だから面白いのがさ、ライヴの打ち上げで記憶飛ばすまで飲むようになっちゃったの。
■そこも振り切れたと(笑)。
そう(笑)。悪魔モードのMAHで極限までいっちゃうようになった。「ハッ、覚えてない。昨日大丈夫だったかな……」みたいなことが高確率で起こるようになっちゃってさ(笑)。
■これはそもそもの話なんですけど、MAHっていう存在を生み出したのもご自身なわけじゃないですか。MAHというキャラクターは、ご自身のどんな願いを託して生み出されたものなんですか。
うーん………やっぱ、俺はプロレスラーになれなかったからさ。メイクをするだけで別人になれるってことに憧れてたし、ヒーローもので言えばバットマンが大好きなのもそういう部分で。自分じゃない自分になりたい、っていう気持ちが生み出したのが、MAHなんだと思う。
■逆に言うと、本来の自分をどう捉えていたから、別人の自分を求めたんですか。
俺は、いつでも冷静で真面目すぎる人間だったからだと思う。さっきの話で言えば、酒を飲んでもパカーン!とはなれない人間だったんだよね。だから羽目を外せる人を見て羨ましいと思ってたし、もし素のまんまステージに上がってたとしたら、自分の言いたいことを言い散らかすことなんてできなかった。本名の自分は「来いよ!」なんて言えないんだよね(笑)。淡々としていて冷静で、いつでも平静を保とうとしている自分……そんな自分を打ち破りたくて生まれたのがMAHだと思う。
■たとえば“No One Knows”にある<どれだけ涙を飲んできたか><静寂を信じたいなら耳を塞げ>というラインもそうなんですが、自分の静寂を侵されることへの怖さや臆病さ、失礼に聞こえたら申し訳ないけど、本来持っている弱さにすごく自覚的な人だと思うんですよ。だからこそ「俺は俺だ」と言える自分を求めてきたところがあるのかなと。
ああ、そうだね。普通のヴォーカリストだったら素のままステージに出ていってスイッチを入れてると思うんだけど、俺の場合、今になってそれが理解できるようになったんだよね。それこそ“No One Knows”って後ろ向きな歌じゃなくて、自分を再確認していく歌なんだよね。俺は俺だって歌うことでこれまでの自分を倒すようなところもあるし、だからこそ、こうして改めて完成したSiMをどう評価されようが関係ないっていう気持ちで<賞レースなんてクソ喰らえ>っていう言葉も歌えたんだと思う。そこが自分でも原点を感じるところなんだろうな。
■原点を辿っていくと、自分の人生そのものを振り返っていく作業でもありましたか。
そうだね……思い返して見ていくと、「あのアルバムを聴いて人生変わったな」とか「あのアルバムを聴くきっかけになったのはあのアルバムだったな」とかはあったと思う。そうして辿っていくと、音楽との出会いをくれた両親の出会いまで振り返ることになっちゃうよね。それは今回に限った話じゃないけど、人生を変えられた作品を振り返った上で、それを自分なりの形で出しちゃえばいいって思えたところは大きい。ハイスタ(Hi-STANDARD)に出会ってバンドをやりたいと思って、その後にRANCIDにドハマりして音楽を掘るようになったわけだけど、それこそ今回は自分の根本にあるRANCIDみたいな曲も出てきたし……まあ、ハイスタとは全然違う音楽性だけど、当時、日本にはすでにハイスタみたいなバンドはいっぱいいたからさ。そこで俺たち世代だけの音楽をやるにはどうしたらいいのかを考えて、ヘヴィな音楽を持ち込んだところがあったんだけどさ。
■ご自身には多くのルーツがあると思うし、音楽的な素養が相当深いのもわかる。その中であくまでヘヴィな音がリアリティを持つのはどうしてなんだと思いますか。
そもそもヘヴィな音楽って聴く人を選ぶものだと思ってて。うるさい・激しい・重たいだけで「これ重たくね?」っていう嫌われ方をするじゃない?その嫌われ方が好きだったんだよね(笑)。普通なら嫌われがちなところに人を呼び寄せるのがめちゃくちゃ楽しいしやりがいがあると思ったし。KORNとかも、気持ち悪いでしょ?だけどその「気持ち悪さにこそ人が熱狂する」っていうのが自分の琴線に触れたんだと思う。マイナスからスタートしてプラスになっていく――そういうもののほうが間違いなくパワーを持ってるんだよね。そこが好きなんだろうな。
やっぱりハッピー、幸せっていう感情を誰もが見せたがるし、ハッピーに人と繋がるほうがいいっていう意識がある。逆に言うと、ネガな部分や怒りや混沌は、「人に見せたがらない」部分だよね。でもマイナスの感情だって誰しもが持っているわけで、そのマイナスの感情を燃え上がらせて昇華するのがヘヴィな音楽なんだよね。それに、ネガティヴィティだって誰しもが持っている感情だと考えると、全員を「ハッピー」よりも強烈なエネルギーで燃え上がらせる可能性を持ってる音楽じゃん。その普遍性はずっと感じてることで。プラスの感情って、燃え上がる沸点が低いんだよね。だから多くの人が音楽の手段として選ぶけど、俺はもっと爆発的で沸点が高いほうを選びたいんだよね。やっぱり俺自身がドロドロとした感情を持って生きてきたからこそ、それを一気に燃え上がらせる気持ちよさを知ってるからさ。
■とはいえ、人を選ぶヘヴィな音楽であってもこの作品は非常にポップで、歌心が強いと思うんです。歌の力が増しているし、メロディが繋ぎ止めているものが非常に多い。その点で言うと、歌の役割をMAHさんはどう考えられているんですか。
俺の世代には、周りにすごいヴォーカリストがいて。だからこそ「俺は全然歌が歌えない」っていう自覚を持ってやってきたし、ある種のコンプレックスがあったんだよね。特にアリーナ規模でやるようになると、熱量以上に歌として届かせることが重要になってくるから。だけど今回は、仮歌も本番の歌もそんなに相違がなくて。これまでの鍛錬が出ているとも言えるし、そもそも全力で歌える環境で曲を作ったことで、最初から歌を際立たせる形になっていたとも言えるんだけど。歌が上手くなったというよりは、自分の持てる力を自然に発揮できる音楽と着地点を見つけることができたのかな。ヘヴィだし、言いたいことをガシガシ言ってる歌だからこそ、歌やメロディがスッと入ってくることはとても大事だと思ってきたから。思い通りに歌えたのは、SiMの音楽にとって喜ばしいことだよね。
■メッセージやアティテュードの間口としての歌がこれだけポップなものになる脳みそと、音楽的な構築の脳みそは別々なんですか。
そうだと思う。日本はどうしても、歌に耳がいく人が多いよね。だからこそ歌はあくまでポップなものになるし、俺自身もメロディに耳を奪われることが多いリスナーだったから。その一方で、音楽的には、頭の中で破壊と構築を繰り返してるところがある。元々は、高校生の頃かなあ。携帯電話に着信メロディーを作る機能がついてて。4和音くらい打てば1曲になるって気づいて、じゃあRANCIDが好きだからスカっぽい曲を作ってみようと思ったのね。で、スカっぽいリズムと音を作ろうとしたら、休符がこんなに入ってるんだって気づいて。たぶん、そこからハマっちゃったんだよね。レゲエになると、休符の取り方がさらに半分になるのか……みたいにやってるうちに、音楽の聴き方と捉え方がパズルになっちゃったの。
■あくまで自然体で作ったとおっしゃるこの作品が、リズムの面で異様に目まぐるしくて性急であることは、ご自身の本来的なカオスが表れているとも言えますか。
ああ、そうかもね。SiMのMAHとしてだけじゃなく、かといって本名の自分としてってわけでもなく、全部含めた俺そのままがこのアルバムだって思うのはそういう部分なのかもしれない。……昔さ、「脳内メーカー」ってあったでしょ、自分の脳の中が何で構成されているかを診断してくれるやつ。人によっては金金金金……とかになっちゃったりさ(笑)。俺の脳内メーカーそのままが出てきた結果、これだけヴァリエーションがあってパズル感のある音楽になっちゃったんだと思う。
■MAHさんの脳内メーカーってどうなってるんだと思えました?
うーん……やっぱ俺って「殺、殺、殺、殺、殺」ばっかりに見えるでしょ。
■一見ね。
そう、一見。だけどそれだけじゃなかったんだなって思えたかもしれないね。最後に“FATHERS”が入っていることで、たったひとつだけ「愛」っていう文字が俺の中にもあるんだなって思った。で、その周りを怒りとか闇とか夢が埋めてるっていう(笑)。そのコントラストがあまりに濃いとも言えるし、逆に、愛がひとつだけあったんだなって実感できたのはよかったよね。
■というか、MAHさんの歌は大きな意味での愛を歌うものばかりだと感じるんです。俺は俺だ、お前はお前だと歌うのも、傷つけ合うことなく互いに寛容になるための言葉として綴られているというか。
ああ……これはちょっと違う話かもしれないんだけどさ、今世の中を見ていて一番しょうもないなって思うのが、何かを引き合いに出さないと自分のことを話せない人なんだよ。たとえば自分の好きなものについて話したい時に、逐一比較する対象を出して「これと比べて、私の好きなものはこんなに素敵」みたいなことを言うのって、一番無意味な他人への攻撃だと思ってて。しかもそういう行為をする人って、無意味に何かを傷つけてることにも無自覚で。それがヤバいと思うの。
ただ好きなものや愛するものを語るだけでいいのに、いきなり比較や貶す対象が入った途端に暴力的になるわけで。それも結局、「自分は自分だ」って思えてない人だから、何かを引き合いに出して傷つけたり下げたりしないと自分を示せないわけだよね。そういう態度のことを「愛がない」って言うんだと思っていて。今って、SNSでは特に、そういう意味のない暴力が渦巻いちゃってるよね。
■他人に対してああだこうだと勝手な物言いをする人。あるいは、ただ自己顕示のために極端な暴論を吐いている人は、MAHさんの価値観・人生観から最も遠いでしょうね。「俺は俺だ、お前はお前だ」という一番大事な部分を平気で踏み荒らしていく存在というか。
そういう時代になっちゃったからなあ。あの頃がよかったって言っててもしょうがないんだけど。でもさ、「発信している」とされている人も、「声を上げている」とされてる人も、人の言葉を借りているだけだったりするでしょ。たとえば「ネット用語」とかあるじゃん。「草」とかさ。それはお前自身の言葉じゃないじゃんって思っちゃうんだよね。発信ってそういうことじゃなくて、自分の気持ちを自分自身で表明して、俺は俺、お前はお前っていうことを尊重し合うための行為だと思うんだよ。
■そうですよね。SiMの歌には、尊重し合うための距離感と個々の在り方を通じて、大きな意味での愛が綴られていると感じます。
俺自身が、昔からズケズケ踏み込まれるのが嫌だったんだよね、ここからは入ってくんなよ、距離感保てよって思い続けてきて。だからさ、自分は自分でお前はお前、っていう考え方が俺にとっての自衛手段なんだと思う。だからこそ、いろんなことを発信することで自分の領域を守ってたところもあったの。俺も勝手に人の領域まで入っていかないし、人も俺の領域まで入ってくる必要はない。そうすれば、お互いに穏やかでいられるでしょ。俺はずっとそういうことを歌い続けてきた気もしててさ。自分を主張しろっていうのは、別にただ噛み付けってことじゃなくて。自分の意思表示をして言いたいことを言うのは、手を組むなら手を組む、サヨナラならサヨナラする――それをハッキリさせることが、自分の平穏を守ることにおいて一番の近道なんだよって話で。
■自分の領域をハッキリさせて、それぞれが個として立つことで傷つけ合わない関係を築けるっていうことですよね。
そうそう。自分は自分だって表現するのは、ただ攻撃することとは違うんだよ。自分自身の安心や大事なものを守るために声を上げないと、簡単に人と傷つけ合ってしまうんだよね、人間って。だから俺は気に食わないことも歌にするし、逆に、自分の愛しているものもちゃんと歌えたのが今回の作品だと思うんだよね。
■ラヴもファックも同じ箱の中に収まっているものだし、MAHさん自身がレゲエとパンクの精神性に惹かれ続けてきた理由がよくわかるお話です。
正直に言うと、何に怒るとか何と闘うとかはなんでもよくて、「物言わぬ反抗」みたいなのが一番嫌なんだよね。どこかで絶対にガス抜きするくせに、その場では黙ってやり過ごす――それが気持ち悪いから、言いたいことを歌にし続けてきただけで。なんにせよハッキリしたいからこそ、自分が嫌だと思うこと、自分が気に食わないと思うことに対して叫んでしまうんだろうね。単に攻撃したいわけじゃない、ただただお互いに優しくし合うための主張を強く叩きつけたいだけなんだよ。
■それで言うと、自分を歌わせるガソリンはどんなふうに変化してきたと思いますか。
せめてSiMを聴いてくれている子たちには、「嫌なことには声を上げてもいいんだよ」って言いたい。それが歌う理由になってるのかな。世の中すべてを変えられるとは思ってないけど、でも、もっと自分の思ったことを言える世界のほうがいいじゃんって思うから。「はい」もしくは沈黙、みたいな世の中じゃ鬱憤しか溜まっていかないし、それが気持ち悪いわけでしょ。「いいえ」と言える世の中になることこそが、自分を守ることと人に優しくすることに繋がるんだと思う。
結婚があったり、子供が生まれたりしたことで、基本的な気持ちが温かいものになったと思うの。だから『THE BEAUTiFUL PEOPLE』の時みたいに内省的なな気持ちはもうないんだよね。だからこそ、怒りや悲しみを無理やり書かなくてよくなって。そういう自分に正直に書いていくと、やっぱり子供が将来このアルバムを聴いた時にどう思うのかな?っていう視点が生まれたのは大きい。毒のある歌にしろ明るい歌にしろ、「お父さんはこの時にこう思ってたのかな」って考える時がくるかもしれないよね。そうなると、無理して暗いことを書くよりも、自分っていう人間が持っているものをありのまま表現して歌うほうがちゃんと伝わるものになる。そういう視点が生まれると、自分の生き方や人生そのものを想う曲も出てくるようになっていくと思うんだよね。
■“Smoke in the Sky”や“No One Knows”のような、人生の誇りと証の歌が今おっしゃったことを表してますね。
そうだね。最終的に「こう見られたい」みたいな邪な気持ちが一切なくなって、自分の大事なものと自分の生き方だけがここに出てきてる感じもするんだよね。そう考えると、結婚を発表してなかったらこんなアルバムになってなかっただろうね。何をしても自分は自分なんだって歌い切れるようなアルバム。まあ、“BASEBALL BAT”みたいに「なんでこうなっちゃったんだろ?」ってマジでわからない曲もあるけどさ(笑)。
■そうですね(笑)。
結婚を発表したのも、本来の自分を曝け出したいっていう気持ちの表れだったんだろうしさ。もしそれすら隠してたら、より一層自分の中で歪みが出てたかもしれない。それは考えてみると怖いことだよね。本当にひとつの選択で人生が変わるんだなって思う。
■MAHさんの面白いのは、自分を曝け出すための勇気を得ていく過程と、ふたつの自分を思い切り乖離させればいいという振り切りが、歌と物語になっていくところだと思うんです。他の方がみんなMAHさんと逆とは言わないけど、本当の自分とMAHという存在に最初から引き裂かれた状態で始まったMAHさんは、ステージの上でなら本来の自分を解放できる、という発想で始まるのとは逆のルートを辿っている感じがあるんですよね。
ああ……なるほどね。俺も、やっぱり今の自分が理想形だと思えてるのね。俺が面白いと思って言ったことの打率も高くなってきてるし、ライヴも心から楽しめてるから。人間ってきっと、OFFの時の精神状態が変わると理想形も変化していくと思うんだけど。OFFで温かい時間を過ごせていることによって、ステージもどんどん楽しくなっていく。ヌルくなったり丸くなったりするのとは真逆になってるんだよね。純粋に本来の自分になれて新しい音楽を解放できたのなら、新しい破壊と構築がまた生まれていくし、家族のためにやり続けたい自分もいる。SiMを続けていく理由とパワーは増えてると思うし、家族のために、なんて考える日がくるとは思ってなかった。
■「生きていく」っていう視点と覚悟が加わると、本当に表現って変わりますよね。今自分がすることの全部に理由が生まれて、目の前の世界の見え方も変わるというか。
そうだよね。結婚したタイミングでも人は変わると思うし、男から夫になって、夫から父親になって。守るものが増えるほど、それが重荷になるんじゃなく、人として進化していくのと同じような感覚があるんだよね。それはいい経験だと思うし、想像もしてなかったこと。言葉を選ぶっていう意味でも視点がたくさんあったほうがいいだろうし、その全部が表現者としての武器になっていくわけだから。……やっぱり俺は「いつか死ぬんだろ」っていう観点で歌も音楽も作っていたけど、今はすでに「生きていく」っていうことを肯定してる自分なわけだよね。
■結婚も、子供と向き合うことも、命を肯定することですからね。
そうそう。それがアーティストとしてよくないことだと捉える人もいるんだけど、子供が生まれたことがマイナスになることはひとつもない。次のアルバムを作る時にまた子供が成長してるし、その時にどんな言葉が出てくるのかが自分でも楽しみなんだよ。その楽しみが未来を作っていくと思うし、「どうせ死ぬ」っていう発想とは全然違うよね。やっぱり人は生きていくし、先に進む力として大事なものを得た感覚のほうが圧倒的に強いんだよ。
■これはもちろん、お父さんになったことで変わりましたねっていうだけの話ではなくて。自然体の自分を解放することで史上最も整理できない音楽が生まれるというのは、MAHさんという人間のよくわからなさと、本来的な異物感が浮き彫りになることでもあって。MAHさんっていう人のよくわからなさがよくわかるところが面白いんですよ。人格と表情があまりに多すぎるなって。
ははははは。普段はこんなに淡々としてるのにね(笑)。俺からしても、これは未知の塊なんだろうなって感覚はあるからね。……俺は普通に過ごして、普通に自分を表現してみたっていうだけだから、自分がここでどう表現されているかってひと言にするのは難しいんだけどさ。
……たとえば“Crying for the Moon”とかで歌ってることだけど、やっぱりこうして生きてると、唐突に不安に襲われる日があるんだよね。そういう時に、「どうしたんだよ、大事なものはもうここにあるだろ、全然平気だよ」って言ってほしいんだろうね。そうして自分に言い聞かせながら歌ってるんだろうし、「どうせ死ぬ」っていうのとは違う意味で、人間はいつ死ぬかわからないものじゃん。自分が死んでしまったら奥さんや子供はどうするんだろうって考えるし、メンバーはどうしていくんだろうってことも考える。逆に、家族やメンバーが死んで俺がひとりで取り残されてしまったらどうなるんだろうってことも、ふと考えるしさ。誰にでもある不安なんだろうけど……そういう時に、今ここにあるものがすでに大事なものなんだって誰かに言ってほしいんだと思う。だから、自分で自分に言い聞かせるように、今あるものを再確認する歌も出てきたんだろうね。
■“YO HO”で歌われているのも、ざっくり言えば、船長としてのMAHさんと仲間の絆ですよね。大事なものが増えていく感覚がこれだけ楽しい歌になるのが、今おっしゃったことを表してる気がします。どこまで行ってもひとりであるけど、独りにはなりたくないっていう。そういう怖さと臆病さも持ち合わせている人だと感じます。
ああ……たとえばさ、SiMがライヴをする時に、もうメンバー4人が「OKです」って言うだけじゃライヴができない体制になってるわけ。だいたい10人のチームで動いてるから、全員のスケジュールが合わないとライヴができないし、その10人が揃わないとベストな形ではやれないんだよね。曲もそう。9割は俺が作ってるけど、ラストの1割はメンバーがいないと完成しないし。そういう周囲にいてくれる人に素直に感謝できるようになったのが本当に大きいんだと思う。これは『DEAD POP FESTiVAL』を屋外開催にするタイミングくらいから、素直に人への感謝ができるようになってきたんだけど。さっきも話したけど、基本的には「嫌です」って素直に言えちゃうタイプだから、会いたくない人とは会わないし、行きたくない場所には行かないわけ。どれだけ無理しないで生きていくかをずっと考えてる人間だったんだよね。だからだいぶ嫌われて生きてる人間だと思ってたんだけど……周囲の人も、他のバンドも、快く力になってくれてさ。全部そうだったわけじゃないけど、あの時期くらいまでは、少しだけ「俺らが動いて稼いでるから、周りのスタッフを雇えてるんだ」くらいに思っちゃってたんだよ。だけど、考え方が真逆になったのがあの時だった。この人たちがいるからSiMが動けてるんだなって。逆に、俺がいなくなったらこの人たちの仕事もなくなるんだよな、マジでちゃんとしようっていう意識も生まれていって。それは嬉しいことだったんだよね。ひとりじゃないって言ったら簡単だけど、ひとりだけで生きてるわけじゃないんだなって実感してきた過程でもあった気がしていて。そうやって変わってこられたんだと思う。
■「俺は俺だ」と歌い切ることと、ひとりで生きているわけじゃないという感覚は矛盾しないし、むしろ自分という存在を確認すればするほど、本当に孤独に生きられるわけがないということが浮き彫りになってきたりしますよね。
そうなんだと思う。SiMのチームで俺の次に古いスタッフがChappeっていうんだけど(SHOW-HATEよりも古くからSiMに帯同している)。ライヴの時は、彼がベースアンプの裏にいて俺のオートチューンとかを操作してくれてるのね。たとえばChappeが病欠とかしたらライヴどうするんだろ?ってふと考えてみたら、めちゃくちゃ不安になったりさ。そうなると、マジでみんなに健康でいてほしいって思うんだよ。こんなこと、普段はなかなか言えないんだけどね。
『THE BEAUTiFUL PEOPLE』の時は、孤独でいることがアーティストとしての自分を自分たらしめていることだと思ってたの。だけどもう、本当の意味での孤独にはなれないってわかるよね。家族もいるし、SiMである以上は仲間がそこにいてさ。それにバンドの仲間だけじゃなくて、“CAPTAiN HOOK”の冒頭にも<ばあさんを遠くに行かせるな>(和訳)って書いたけど、うちの祖母が認知症になっちゃって。もう、書かずにはいられなくてさ。どうしたらいいかわからないし。毎日体験したことを書いたり、周囲の人を見て改めて生きていくことを再確認したり。嬉しい話じゃなくても、自分がここで生きていることは、いろんな人がいるからこそなんだなって実感することは増えていくよね。
■この作品の解説には「音楽的凶器をたくさん持っている」という旨の言葉があります。もちろん凶器的ではありつつ、自分には音楽にできることがたくさんあるし、ここまで生きてきて出会ったものを全部音楽にできる自分に気づけた作品とも言えますか。
ああ……もう、人生だよね。本当にそれは思う。だからたまには楽しい歌詞とか書いてみたいなって思ったりもするんだよ。まあ絶対に書かないんだろうけどさ(笑)。ただ、俺の思う「俺の書きそうな歌詞」は全部書き切れてる感じがしてるんだよね。音楽的に新しいタームに入ったと思うから、逆にもうちょっとコンセプチュアルにメッセージを書いていってもいいのかなって気がしていて。今回は本当に衝動的に書いていったから、ここで改めて自分自身をひとつの物語にするような作品を作ってみたいなって。まだ全然わからないけど、次へのイメージがあるとしたら、そういう感じかな。
■そうですよね。何か大きなマトに向けて怒るんじゃなく、とにかくMAHさん自身の人生絵巻として歌がある。中指を立てている歌も、自分の人生や優しさを侵すものに対して怒ってるわけですし。
本当にそう。全方向に喧嘩売る感じは一切ないよね。とにかく自分と自分たちを誇って、だからこそ人の人生も尊重するんだよっていう……そういうアルバムな気がしてる。怒るのも、「ここから入ってきたら噛みつくぞ」っていうだけでさ、お互いに優しくし合うための線は絶対にあると思ってるから。それは俺の人生観として本当に大きい。まあそれもね、長州力が大仁田厚に「またぐなよ、またぐなよ」って言う有名なシーンがあるんで、知らない人は調べてほしいんだけど(笑)。
■くくくく。
本当にそれなの。またいできたらただじゃおかないけど、またがないならいいよって(笑)。
■それは排他じゃなく、お互いを尊重するための一線ですよね。
そうそう。当たり前だけど、人を傷つけるためにやってるんじゃないから。人を傷つけるものを許せないからやってるんだよ。たとえば“BULLY”のMVを公開した後のコメントを見てても、音楽には純粋なパワーがあると思えたし、音楽は人の力になれるものなんだって改めて実感して。“FATHERS”を聴いてメンバーが泣いちゃうとかもそうだよね。音楽の力を信じてるっていうよりは、もう確信してるところだなって思う。
■そういう音楽を作った今、改めて自分はどんな人間だと思えてますか。
いやあ……一歩間違ったら犯罪者だったかもしれない人間だよね。音楽家でよかったあって感じ(笑)。だってさ、矢島くんも言ってくれてるけど、自然体で出てくる言葉がコレ(BASEBALL BATの歌詞のような)って変じゃん?
■はい、変です。
そうだよね。冷静に考えたらヤバいもんね。だから、音楽に出会えてよかったなって思えるかな。5歳くらいの時に聴いた音楽――エリック・クラプトンだったんだけど――がきっかけで、そこから音楽に矯正されてきた人生だと思うんだよね。ちゃんとはしてないかもしれないけど大人になって、子供も生まれて、真っ当に生きていられてる感じになって。音楽作っててよかったと思うよ。一般人だったらヤバかっただろうし、こうして歌ってても、未だに自分がよくわからないからね(笑)。
■そうですね(笑)。じゃあ、最後に。この作品を作ってみて、SiMとはどういうバンドだと思えましたか。
うーん………過小評価されすぎてるバンドかな。
■ストレートに伺うと、過小評価されてるっていう鬱憤は相当溜まってましたか。
うん。それは相当溜まってたと思う。だってさ、「そこじゃねえだろ」ってとこばっかり注目されるんだもん。はっきり言っちゃえば、俺の見た目がどうとかシャウトがどうとか……いや音を聴けよ!って思うの。曲がヤバいんだからさ。
■本当にそうですよね。これだけの音楽的カオスをこれだけ美しく統制できてるのは本当に素晴らしいし、他でまったく聴いたことのないロックがここで鳴っていると思います。
でもまあ、知ってくれてるならいいか!って思ってきたけどさ(笑)。もっと音楽のヤバさを聴いてほしい気持ちはある。ここでこんな音入れてくるか!みたいな聴き方をしてくれたら嬉しいけどね。ただ、こうして4年アルバムを出していなかった間にも「過小評価されてるな」っていうのは感じてたから。
■SiMのことを音楽的に聴けていないヤツにもわからせるためにはここまで振り切らなきゃいけなかったところもあるんですか。
ああ、それは絶対あるね。いいんだね? やっちゃうよ?みたいな。だからこの作品がどう捉えられるかもわからないし、やり過ぎだよ!って言われても構わない。それくらいヤバい作品を作れた実感はあるからね。
■SiMが日本のシーンに持ち込んだものって、洋楽も邦楽も概念ごと飲み込んでいく音楽的な越境感だったと思うんですよ。そこでツーステップを踏めるとか、キャラクター性だけで語られるとか、表層的な評価だけで終わっていた人も多い中で、そこじゃねえんだよっていうことをあまりに明快に示す作品として、親切といえば親切だなと思うところもあるんですよ。
まあね、そうとも言えるかもね(笑)。一方で、SiM好きならこれを乗りこなしてみろよっていう気持ちもある。15年目で、ただの年数じゃなく節目になりそうだなって思える作品かな。よかったのは、そこで陰の方向に行かなかったところで。そっちに振り切れてしまう可能性もあったと思うのね。でも結果的に、“BASEBALL BAT”や“Devil in Your Heart”みたいに明るい方向の曲が出てきたから。そうして開いた新しい扉があるからこそ、これからが楽しみだね。
interviewed by Daichi Yajima
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