2021.1.27 Release
本作は、大成建設のTVCMソング「春泥棒」、映画『泣きたい私は猫をかぶる』エンドソング「嘘月」、TBS系『NEWS23』エンディングテーマ「風を食む」に加え、新曲「強盗と花束」とインスト楽曲「創作」含む、“春”をテーマにした全5曲を収録。
仕様は【CDが入っている】 Type Aと、デザインや歌詞カードなどのパッケージが全く同じで【CDが入っていない】Type Bの2形態で発売。
タイプBでは「CDのないCD」というメディアアート作品として、中身が空になったCDを販売する。
サブスクリプションサービスなどで気軽に音楽を楽しめるデジタル時代となった今、”CD”の在り方をCDショップで問う、皮肉が込められた作品となっている。
Type A (CD付き)
収録内容
-
01. 強盗と花束
-
02. 春泥棒大成建設CMソング
-
03. 創作
-
04. 風を食むTBS系「NEWS23」エンディングテーマ
-
05. 嘘月アニメーション映画「泣きたい私は猫をかぶる」エンドソング
Type B (CDなし)
※Type Bには音源メディアは収納されておりません。
※Type A、Type B共にジャケットなどのデザインは共通です。
チェーン別購入者先着特典(TypeA、TypeB共通)
以下のCDショップではアルバム『創作』をご購入の方に先着で特典をお渡しいたします。
特典は先着となり数に限りがございますのでお早目のご予約をお勧めいたします。
アルバム『盗作』から約半年。ヨルシカがリリースした新作EP『創作』は、タイトルからも明らかなように、"音楽の盗作をする男"の物語を描いた『盗作』と地続きのコンセプトを持つ一枚だ。
対称的な二つの言葉をタイトルに冠した意図とは。“春”をテーマにした全5曲はどのようなモチーフから作られていったのか。そして、“CDが入っている”タイプAとパッケージが全く同じで“CDが入っていない”タイプBの2形態で発売した意図とは――。
コンポーザーのn-buna、ヴォーカリストのsuisに、新作の裏側について語ってもらった。
Text / 柴 那典
Read more
―『創作』という作品のアイディアはいつ頃からあったんでしょうか?
n-bunaそもそも『盗作』を作っている時から、次は『創作』という作品を出して終わりにしようと考えてました。なので、曲も同時期に作ったものが多いです。「春泥棒」も「強盗と花束」もそうですし、「風を食む」は『NEWS23』というニュース情報番組のエンディングテーマですけど、それも『盗作』を作っていた時期にデモはあった。『盗作』を作っている時から、次の展開はすべて考えていました。
―『だから僕は音楽を辞めた』と『エルマ』がそうであるのと同じように、『盗作』と『創作』をある種の対称性を持つ作品にしようというイメージがあったんでしょうか?
n-bunaそこのところが今回の僕のちょっとした遊びなんですけど、僕はそもそも盗作と創作には大きな違いはないと思っているんです。結局のところ、自分が創作物だと思うものも、その人のそれまでの人生の蓄積や、いろんなものに影響を受けて形成された人格の延長線上でしか生まれてこないわけです。そして多様な作品があふれている現代においては、たとえ自分の創作物だと思っていても、創作の歴史のどこかしらで一度は表現されているものに必ずなる。創作は盗作の延長にしか存在しない。今ではそこに境界線はないんです。それはどんなアーティストでもそうです。「意図的に盗んだ」か「意図せず盗んだ」にしか違いはない。そしてそれは心持ちでしかない。どんな気持ちで作ったか、なんてただの情報でしょう。だからこそ、僕は同時期に同じような手段で制作した曲を、ある種の自己批評を込めて『盗作』と『創作』という二つのタイトルで出したかったわけです。
―なるほど。それが『盗作』の次に『創作』を出そうと考えた意味でもあった。
n-bunaそうです。受け取った側のリスナーの人たちやファンの人たちが「『創作』と『盗作』の内容にはこういうコンセプト的な違いがあって、だからこういう風に楽曲の深みが違うんだ」みたいなことを言っていたら面白いじゃないですか。
―『創作』は5曲入りのEPとしてリリースされるわけですが、この形はどのようにして決まったんでしょうか。
n-buna『盗作』を作り終わった頃には、次はフルアルバムじゃなくてEPを出そうと考えていましたね。『盗作』と流れで聴いてちょうどいい曲数、ちょうどいい構成になるにはEPが適切だろう、と。フルアルバムをまた作っても長すぎるし。今作りたい曲たちを詰め込んだという感じです。
―曲それぞれについてもじっくり訊いていければと思います。まず1曲目の「強盗と花束」は、いつぐらいに、どういうところからできた曲なんでしょうか?
n-bunaこれは『盗作』のデモや全体像を作っていた時期に、同時にできた曲です。強盗の曲を作ろうと思ったところからですね。
―《僕らで全部奪うのさ》《盗めばいいと思った》という歌詞もありますし、この曲は「盗む」と「奪う」ということが直接的に曲のモチーフになっていますね。
n-bunaそもそも『創作』自体も、『盗作』の主人公の盗作家の男の気持ちで作っていたので、自分の中の露悪的な価値観をそのまま書こうという気持ちがありました。「強盗と花束」は最初と最後がつながっていて言ってみればオチがある曲ですね。僕、法律とか規則が嫌いなんですよ。普段は意識していないけれど、僕の知らない間に決められたルールが、目に見えない縄みたいに周りにふわふわ浮いているわけじゃないですか。社会的な理念として「ここからはみ出しちゃいけませんよ」という規則の縄が。生まれた時から勝手に引かれている。不快じゃないですか。僕の自由意志の侵害ですよね。だからと言って、今の社会で法律を破ってしまったら、罰則を受けるべきであるし、自分がそこからはみ出そうとは思わないですが。でも、だからこそ、強盗を語る曲を書いてもいいじゃないですか。創作の中では何を言っても許されてしかるべきだから。
―《強盗と花束に何の違いがあるのですか》という歌詞には、非常にハッとしました。
n-bunaよかったです。強盗で奪った花束が、死にゆく妻に贈るためのものだと言ったら許されたという歌詞ですけど。買ったか奪ったかで花束の価値が変わるんですかね。気持ちが大事だとか、犯罪で手に入れたものを貰っても嬉しくないとか、それって心持ちの話ですよね。心の話とかしてないんですよね僕は。なので強盗と花束の違いは、たしかに僕もよくわかんないなあと思うんですけど。suisさんも、そこらへんが好きって話をしていた気がする。
suis私も、『強盗と花束』の歌詞がめちゃめちゃ好きで。法律、嫌いなんですよ(笑)。
n-buna(笑)。
―この歌で言う「花束」は「死にゆく貴方」に花をあげるために地面に生えている花を摘み取る行為で、「強盗」は同じ目的で花屋の店先に並んでいる花を奪う行為。なので、違いがあるとしたら、社会規範と法律だけである、と言うことですよね。
n-bunaそうですね。社会の常識や法律というものが縛りとしてあるだけで、実際、事実としての違いはあまりないっていうか。
suis私は自分の中の善悪がずっと曖昧な人間で、私的にOKな気がするけど法律ではダメなんだっていうことが沢山あるんです。強盗と花束の違いっていうのも、私も全然わからなくて。本当にわからないから、純粋な気持ちで「強盗と花束に何かの違いがあるんですか?」って社会に問いかけている。その気持ちはすごくわかるんです。私も純真なまま、それを誰かに訊いてみたかった。n-bunaくんと同じように、私も創作の中だったらそれをやっていいんじゃないかと思うんです。だから音楽の中で、n-bunaくんが書いた歌詞を、私自身も共感しながら歌えたのは、すごく気持ちがよかったです。
n-bunaだから、歌としてもスッと入ってくる歌い方ができているんだろうなって思います。この曲のヴォーカルのテイクはすごくいいんですよ。レコーディングの時にもディレクターと「いい歌ですね」と話していた記憶があります。
―『盗作』でも「昼鳶」や「思想犯」でsuisさんの低い音域での歌声の魅力が発揮されていますが、この曲でもsuisさんのヴォーカルの表現力が増しているのを非常に感じます。
suisありがとうございます。光栄です。
―「春泥棒」はどうでしょうか。大成建設のCMソングとしてオンエアもされていましたが、これはどういうタイミングで書き始めたんですか?
n-bunaこれも『盗作』を作っている時です。曲の全体像としても『盗作』の小説の1シーンがモチーフにもなっている曲ですね。歌詞の内容も、盗作家の男が妻と桜を見ている時の話を書いている。それはただ単に花見の曲としてもとれる。「春泥棒」は春風のことで、春風は桜の花を散らしていく、つまり盗んでいくから春泥棒。『盗作』に入れてもよかったんですけれど、春の曲を『創作』に集めようと決めていたので、こっちに収録することになりました。
―『創作』は春をテーマにした曲を収録したということですが、春という季節にn-bunaさんはどういうイメージを持っていますか?
n-buna春は夏の次に好きな季節ですね。季節としての春、それから春の終わりから夏の空気感がもともと好きで、そういう曲を沢山作ってきました。僕は俳句や短歌が好きなんですけれど、そこにもよく描かれるものですし、季語として美しいものも沢山ある。たとえば尾崎放哉には「思想犯」でオマージュした「春の山の後ろから烟が出だした」という辞世の句のような、美しい句も沢山ある。好きな季節です。
―suisさんは「春泥棒」についてはどんな風に捉えましたか?
suis私、この曲すごく好きで。デモをもらった時にも「めちゃくちゃいいじゃん!」って、すごく感動しました。私も、もともと春がすごく好きなんです。桜の街で生まれ育ったんで、自分の人生の中に桜が舞う春のイメージはずっとあって。そういう意味でもしっくりくるし、何よりすごく曲がよかった。二人とも、この曲に対する思い入れは今まで以上にありました。この曲は、今までにないくらい作る段階で音源のやり取りをして、n-bunaくんと一緒にああだこうだ言って考えながら作っていったんです。
n-buna僕、普段はデモの段階でメロディやアレンジや構成を作り込んで、完全に出来上がった段階でsuisさんに見せることが大半なんですよね。でも、あの曲は初めて途中でsuisさんにメロディの相談をしました。僕個人としても手応えがあったので、一刻も早く形にしたかったですし、suisさんだったらどう捉えるだろう?と。ヨルシカとしてあまりない形での制作だったと思います。
suis歌うのもすごく楽しかったです。録ってくださったエンジニアさんにも「この曲がめちゃめちゃ好きな気持ちが出ている」と言ってもらえて。《瞬きさえ億劫》というところの感じとか、今まであまりやってこなかった表現方法にドキッとさせられるところもありましたし、自分もやったことのない感じでもあったんで、この曲を歌えるんだっていうヴォーカリストとしてのワクワク感もあった。そういうのが全部入った曲ですね。
―「春泥棒」はどういう情景を思い描いて、どんなイメージを膨らませて書いていった曲なんでしょうか?
n-bunaこの曲は見立ての曲なんですね。昔から日本人は、桜の花が散る様子をいろんなものに見立てて詩や句を書いてきた。今回僕は、ありがちですけれど、命を桜に見立てました。そして、それ以前に桜の曲を書こうと思った切っ掛けがあります。立川昭和記念公園の大広場、綺麗な原っぱがあるんですけど、その中心に欅が一本だけ立っていて。休日になると家族連れが訪れて、木の下で涼んだり、レジャーシートを敷いて遊んでいるようなすごく綺麗な場所で、僕はそれがすごく好きで、休日に本を読みに行ったり、ピクニックしに行ったりしていたんですね。で、ある時広場の端に座って、その大きな欅を見ながら考えたんです。もしも今季節が春で、あの欅が桜だったらどれだけ綺麗だろうと。そこから、あの欅を桜に見立てて曲を書こうと思った。だから、そもそも出発点が見立てなんです。
―草原のような大きな原っぱがあって、青空がその上に広がっていて、その中心に一本の大きな桜の木があるという光景を思い描いた。
n-bunaそうですね。そういう意識で書いた曲です。実際にそこで欅を見ながら歌詞を書いていたのを覚えています。その上で、ただ桜を描いた曲じゃつまらないから、だとしたらこの『創作』というアルバムの中でこれを何に見立てたらいいだろう?と考えた。そうして、盗作家の男から見た妻の寿命を桜に見立てた曲を書こうと思いました。歌詞の全体像を読んだらわかるんですけど、ただ、綺麗な桜が散るだけの曲にも読み取れるし、《あと花二つだけ もう花一つだけ》と、寿命がどんどん散っていくようにも見える。二つの見方ができるものを書きました。
―そうすると「春泥棒」という曲名は花を散らせてしまう春の強い風の象徴であるわけですが、そのモチーフも見立ての中で別の意味を持ってくる。
n-bunaそうですね。「春泥棒」は、桜としての見立てで言えば、桜の花びらを散らせる春の風のことを言っているわけだし、寿命を散らしていくという意味で、時間というふうにも読み取れる。
―「創作」はピアノのメロディをいろんな楽器で重ねていくようなインストゥルメンタルの曲ですが、この曲はどういう象徴として作っていったんでしょうか?
n-bunaまず、この曲で使われているピアノ以外の音たちは、全て一般的に音程を持っていないとされている音たちなんです。太鼓の音や、拍手の音、環境音だったりする。それら全てに実際に音程はあるんですけど、そう聴こえにくいから、人々は音程を持っていないと認識している。話し声や、祭囃子の音や、風の音や、鳥のさえずりや、そういう音ばかりを集めて、無理やり加工して音程を持たせて、それをピアノに合わせてオーディオ的に演奏させるということをしました。何故そういうことをしたかというと、僕はずっと「世の中に創作というものが存在し得ない」という話をしていて。特に、現代の音楽の中ではメロディのオリジナルというものは出尽くして存在していないと思っているんですね。ならメロディではなく音そのものに意味を持たせる。音程の存在しない音を使って無理やりメロディを作って曲を組み立てる、作る過程にこそ意味がある。音自体に意図があって、それらを組み立てて創作をするというテーマでインストを作りました。展開はすごく単調なものにして、いろんな音たちが重なり合って曲を形作っているという、現代音楽的なインストゥルメンタルです。
―そういう作り方をした曲が『創作』というEPのタイトルトラックであるということについてはどうでしょうか。
n-buna今言ったように、この行為自体は創作たり得るんじゃないかっていう、盗作で問うた「オリジナリティ」というものへの僕からのひとつの回答という感じですかね。音楽の組み上げをどう行うかという行為自体に創作としての意味を持たせることができるんじゃないかと考えた。ただ、これを僕がどう作ったかというコンセプトを知らない人は、知らなくてもいいと思うんですよ。「ピアノのメロディが好き」だけでもいいと思うし「いろんな音を重ねているだけの単調でつまらない曲だな」って思ってもいい。その解釈がいろいろあるのが、作品鑑賞のいいところなので。
suisこの曲ってすごくシンプルだし、技法は珍しいですけど、音としてすごく気持ちいいものが全部並んでいるわけでもなくて。だからこそ、今まで私がヨルシカの曲に対して思っていた「音楽として好き」とか「聴いていて気持ちいいから好き」っていうだけじゃなく、初めてn-bunaくんという作った人の創作への想いがすごく重要に感じる曲だと思いました。作品って、聴いた人の解釈が一番大事だというのもあると思うんですけれど、この曲に関しては、ただつまんない曲だなって受け取っちゃうのは、すごくもったいないなって。リスナーの皆さんにも、ただ音を聴くだけじゃない楽しみ方で、彼の創作に対しての答えを受け取ってもらえたらいいなって思いました。
n-bunaただ、僕が今言ってることって、僕がずっと言ってきたことと本来は対極にあるはずのことなんですよ。作品の価値は作った人に依存しないし、作品の本質的な美しさはそれがどう作られたかには関係しない。それが僕の昔からの持論なので。そういう意味では、究極的に自分のためのものを久しぶりに作った感じがします。自分の価値観をアウトプットしようという目的だけで曲を作ったのは久しぶりだなあ、と。珍しい曲を作ったなあという気持ちです。
―わかりました。「風を食む」は『NEWS23』のテーマ曲として書き下ろされた曲ですよね。これはどういう風にして作っていったんでしょうか?
suisたしか最初に別のデモを作ってたんですよ。それがダメになって「風を食む」を作った記憶があります。
n-bunaそうだ。最初に作ったデモがボツになって「じゃあこの曲はどうですか?」って出したのを覚えていますね。そのデモ自体も盗作の時に作ったストックから再構築した物です。
suisボツになった曲も、この「風を食む」も、n-bunaくんというひねくれた人がニュース番組のために書いているから、いつも以上に挑戦的かもしれない。でも、私から見ると、社会への救いみたいなものを提唱しているように感じる曲ですね。
―歌詞は消費社会を題材にした内容になっていますが、これはどういう風に書いていったんでしょう?
n-buna歌詞自体は、ニュースとして使われるエンディングでもありますし、でも、普通のポップソングを作ってもつまらないから、ニュースとして流れることに意味があるものを書こうと思って、その歌詞を書きました。歌詞の深い内容については、ニュース番組側との調整もありながら書いていきましたね。その中で消費するという行為がテーマになった。作る過程で、歌詞はいろいろ書き換えているんです。僕が「この言葉がニュースで流れたら面白いだろうな」と思う歌詞を書いて、「ちょっとこれは使えないです」と言われて、また少しだけ書き換えて。ネガティブなワードは中々使えなかったわけですね。結果として、なぜか《ニュースは希望のバーゲン》というフレーズが通った。そこが、僕は大変面白いなぁと思いました。タイアップだからこその曲作りの楽しさは感じましたね。
suis私としては、《ニュースは希望のバーゲン》というのも、今の社会のあり方に対して「これをニュースで流せたら、もうちょっといい社会になるんじゃないの?」っていう、ギリギリを攻めたような感じがしました。
―suisさんは、この曲はどんなふうに捉えて、どんなふうに歌っていきましたか?
suisまず、曲をもらった時に見えたのが、ふたりの人間だったんです。最初は《貴方さえこれはきっとわからないんだ》と、理解が示せないということを言っているようで、最後は《貴方だけ この希望をわからないんだ》と、その人のことを誰よりわかってあげる歌詞になっていく。そこがすごく優しいなって思いました。
n-buna不理解の曲だけど、希望への不理解の曲という解釈ができる。そういう話をした気はします。
suisあとは「風を食む」というワードがすごいなって。私、深呼吸が趣味で、外に出て、綺麗な風を身体に入れて、大きく吐き出していく作業が好きなんです。「風を食む」って、そういう気持ちよさとか空気の美味しさ、春のさわやかな温かさをふわっと感じる曲で。そこがすごく素敵だなって思って、それを歌い方でも表現できたらなって考えました。
n-bunaこの曲、要は「書を捨てよ、町へ出よう」ですよね。周りの世界を見に行こう、という。《靴を履きながら空想 空は高いのかな》というのも、靴を履いて、空の高さ――この「高さ」っていうのはここではつまり値段にかかるんですが――を想像しながら扉を開けて外に出るということを書いている。そして「風を食む」という言葉は複数の意味で取れるように思います。外に出る決意、殻を破るという行為は、世界へ何かを見つけにいくということでもある。部屋から出て生きる、外に出るという行為は、口を開ける、つまり、言葉を発する、主張をするということにも置き換えられる。それは風を食んでいるようにも見える。そういう曲です。
―「嘘月」は「花に亡霊」「夜行」と同じく『泣きたい私は猫を被る』に使われた曲ですが、これはどのようにして作っていった曲ですか。
n-buna基本的には『盗作』と同じ時期に作った曲たちなので、「花に亡霊」や「夜行」と同じように、映画の本筋にはあまり関係なく、自由に好きに作らせてもらったという感じです。具体的に言ったら、尾崎放哉の句が、「思想犯」と同じように引用されているので、尾崎放哉の晩年をイメージしながら作った曲ではあります。
―《こんな良い月を一人で見ている》《僕は愛を底が抜けた柄杓で飲んでる》という歌詞は尾崎放哉の句のオマージュですね。このフレーズからはすごく孤独な風景が伝わってきます。
n-bunaそうですね。放哉は晩年、本当に孤独な人だったので。最期は小豆島で暮らしていたんですけれど、放哉や(種田)山頭火の師匠で「層雲」という雑誌を運営していた萩原井泉水がたまに訪ねてきたり手紙を送ってくるくらいで、ほとんど人と関わりがない生活を送っていた。孤独だからこそああいう句が沢山生まれた。その寂寥感が彼の作品のいいところなんですけど。それを上手く重ね合わせたものが書きたかった。
―suisさんはどうでしょうか。この「嘘月」に関しては、どんなふうに受け取って、どういう想いを込めて歌った感じでしょうか?
suisこの曲に関しては、一人の主人公とその人が暮らす街をイメージして、ワンルームの部屋の中から外の夜景を見ているイメージで歌いました。そもそもこの曲は、『盗作』を作っていて、犯罪をテーマにした曲があと1、2曲欲しいと言っていた頃にできたんです。私がn-bunaくんに「噓つきは泥棒の始まりだから、犯罪じゃない?」って話をしたら、それがきっかけになった記憶があります。
n-bunaそうそう。嘘つきの曲を作るって言った覚えがある。
suisそこから予想外な曲になりましたね。「噓つきは泥棒の始まり」という発想から「嘘月」というこんな綺麗な曲が出てくるんだって思ったのを覚えています。
―噓つきの曲を作ろうというアイディアから、どういうふうにこの曲の情景が広がっていったんでしょうか。
n-buna僕の中での噓つきは孤独を肯定する類の詩人ですからね。放哉、(萩原)朔太郎あたりが、孤独な人で、かつ噓つきだと思います。そもそも、本当に孤独でありたいなら、創作行為をして世の中に発表していない。僕も同じなんですけど、彼らには「人に理解されなくていい」と思いながら人に理解されたい、してほしいという傲慢がある。矛盾からは良い作品が生まれますからね。
―わかりました。最後に『創作』の発売形態についての話も訊かせてください。『創作』は「CDが入っている」Type Aと、パッケージが全く同じで「CDが入っていない」Type Bの2形態が発売されます。サブスクリプションサービスやダウンロードのようなデジタルの形で音楽が聴かれるようになった今の時代の前提を踏まえた仕掛けだと思うんですけど、これはどういうところから考えたんでしょうか?
n-bunaこれはそもそも、陳腐なことがやりたかったんです。今の時代に「CDが入っていないCD」を出すっていう行為自体は、ある種の批判性のあるものになるから面白いとも思ったんですけど、単純にそういう自己批判性を持った行為はアートの歴史の中で手を替え品を替え、腐るほど行われている。その上で、じゃあ自分は何が欲しいのかを考えたんです。「CDのないCD」を出すという陳腐な禅問答の先に何があるか。簡単に言えば僕は、CDという文化が死に絶えようとしている水際の瞬間に中身が空のCDを売って、それを実店舗で買っている人の姿を見たかった。その様子を写真に撮って、その写真を持って初めて「創作」という作品にしようと思ったんです。僕が個人で所有して鑑賞する、自身の為の作品です。たとえば50年後くらい、実メディアの死に絶えた世界で「あの時代にはCDというものがあったなあ」と感慨に耽りながら、その写真を見返したい。その頃には、写真というものもオールドメディアになっているかもしれない。「CDというメディアが死にかけの時代に、実店舗でCDの入っていないCDを買う人たちの姿」はきっと美しいものになると思う。僕はその光景を写真に撮りたかった。だから「CDのないCD」というものを作りました。
―この発売方法について「『CD』の在り方をCDショップで問う、皮肉が込められた作品となっている」という情報もオフィシャルから発信されていましたが、単に皮肉であるというだけでなく、その向こう側に意図があるということですね。
n-bunaそうですね。その文章にも、最初は「皮肉」という言葉は入っていなかったんですよ。それで僕が担当の方に“皮肉”って書いてください」って言ったのを覚えていますね。皮肉って自分で説明するのってダサいじゃないですか。でも今回は、皮肉だと自覚した上で買わせることに意味があると思った。わざわざ皮肉だと提示してそれを理解した上で買ってくれないと意味がない。ある種、宗教的にも見えるCD文化への信仰もありつつ、ヨルシカというアーティストの信仰もありつつなんでしょう、ある種抑圧的にも見えるこういう行為だとちゃんと説明をした上で僕は売りたい。皮肉だと提示された上で空のCDを売る店舗の姿も、きっと美しいですから。
そして皮肉の先にある僕の作りたいその光景は、僕がこうして話しているインタビューを見ない限り、受け手にはわからないことでもある。それも面白いと思うんです。ある程度自分のことを賢いと思っている人たち、ちゃんと物事を考えることのできる人たちは、今回ヨルシカが出した「CDのないCD」という行為が、芸術の世界では陳腐なものであるということをわかるはずなんです。いろんなところで形を変えて、表現を変えてやり尽くされている単純なダダイズムであるということを理解できる。でも、僕という個人を知らない人たちはそこにしか辿り着けない。『盗作』の時にも「盗作という題の作品に群がる人達」をメディアアート的な作品にしたかったとか「作品の本来の価値とは関係ないところで生産性のない議論をしている人たちを見ることを楽しみにしている」という話をしましたけれど、今回もそれに近いですね。自分が賢いと思っている人たちが気持ち良く批評している姿も見てみたい。実店舗の下りと同じです。僕にとっての今回の「創作」の価値は「作品を鑑賞する人の姿」にある。でもね、それらの意図を知らずに鑑賞する姿って、きっと作品にとっては間違いじゃないんです。僕ら作者にとっての意図が何なのかなんて、本来作品の美しさには関係のない、ただの情報でしかない。美術館で見た見知らぬ絵画や、ふとラジオから流れてきた曲に心を奪われる瞬間が存在するように、創作の根本の価値に必ずしも情報は必要じゃない。そのメロディが美しい理由を誰もが知る必要なんて、本当は無いんです。