椎名林檎 New Album『禁じ手』

椎名林檎 2026.3.11 New Album

『禁じ手』
ライナーノーツ

文:成田悠輔

※数多の歌詞の引用あり。ネタバレにはご用心

キツリツ物を自慢げに一般公開する女性の感性を疑った!!
そう言いたくなるほど。むり、なんてすけべなんだ。不本意ながらえっち過ぎる作品だ。

そうなるのも無理はない。数千年前に誰かも書いている。神様を代弁して。

「民は一つで、みな同じ言葉である。彼らはすでにこの事をしはじめた。彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。
さあ、われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう。
こうして主が彼らをそこから全地のおもてに散らされたので、彼らは町を建てるのをやめた。
これによってその町の名は喧騒と呼ばれた。」(旧約聖書)

言語たち、文化たちはバラバラすぎて無駄や摩擦が多すぎる。だから一つにしてしまおう。晴れて言語と文化が統合された象徴に、世界を見渡す高い高い塔を建てよう。そう考えた人類は天に近づいていった。あのバベルの塔の夢である。

だが、そこに下される神様の一撃。人類の傲慢が打ち砕かれたあと残ったのは、乱れ互いに通じず交わらない多様な言語の喧騒だった。錯乱した言葉たちの喧騒を表す言葉が「バベル(babel)」だ。バベルとはだから、わかりあおうとすることの困難さと傲慢さの別名である。

傲慢な人類には、でも秘密兵器がある。喧騒を裂く音楽だ。音楽は言葉なんてまどろっこしい膜や壁を軽々と突き抜けて接続してしまう。だから音楽はすけべでえっちなものである。

⾳楽は⼈間っぽくもある。⼈間以外の動物が⾳楽で踊り狂ってる姿なんて見ない。ある研究者がトドを訓練して⾳にのって踊らせることに成功したとき、驚きの科学的発見としてちょっとしたニュースになったくらいだ。音楽は動物的に⾒えて実は⼈間的。言葉では誤解し錯乱し中傷することを運命づけられた人間の解毒安定剤が音楽なのかもしれない。

こうして、言葉と音楽の関係は源泉からこんがらがっている。逆方向にひっぱって絡み合っちゃったスパゲティ配線みたいだ。分断され各地に閉じこもるからこそ意味と情報を伝えられる言語に対し、物理法則にしか縛られない波の束である音楽はあらゆる言葉たち、あらゆる文化たち、そして人類全体を貫く。音楽と言葉は、お互いがお互いを補完しながらお互いがお互いを無化するような緊張関係にある。

だから言葉を歌う音楽は厄介で、食い合わせが最高であり最低。不純である。その不純さこそ、しかし、歌う音楽を人類にとって最も麻薬物質的な芸術・娯楽たらしめているハッピーターンの粉なのである。

普遍と土着が魔結合した歌う音楽なるもの。それを手がかりに私たち迷える子羊は、喧騒の中でふたたび交わることができるだろうか?

そんな太古から積み残した宿題を『禁じ手』はやっている。そう勝手に素人解釈してみる。

その兆候はいくつもある。半分(11曲中5曲)が外国語の曲なのはたぶん偶然ではない。日本人が外国語で書いて外国語で歌うだけで離れ技。外国語アレルギー持ちの多い日本人の客に届くのかどうか大きなお世話で心配になってしまうが、届かなくてもいい。届かなくてこそバベルの喧騒である。互いに通じず交わりきれないことが神様の手で決定づけられた日本語とそれ以外(英語、仏語、スペ語)の共存が喧騒をなす。

椎名林檎本人によれば、作曲したアーティスト(「松に鶴」なら伊澤一葉)の「普遍性を強調するため、敢えて遠く地球の反対側で用いられている言語で作詞した」とか。

深遠に哲学的なのか、音優先で言葉を配合したことで意味不明になっただけなのか際どいところをいく日本語詞(たとえば「W●RK」)と、直球素朴で意味明瞭な英語詞(たとえば「憂世」)の混在も、喧騒の喧騒度を高めている。

喧騒のしるしは他にもある。そもそも「自作曲封印という “禁じ手” を繰り出した」と大本営発表されている通り、「他アーティスト作品への客演/他プロデューサーとの共作楽曲のみ収録した珍品」である本作では、作詞する自分と作曲する他人の軋轢が避けられない。

J-POPの流行歌と遠く隔たった地球の反対側で仕事してきた三宅純やBIGYUKIに日本語歌を作曲してもらうこと自体、J-POPの内と外、日本の内と外を暴力的に繋いでしまう禁じ手である。

場所や言語だけではない。過去・現在・未来の時間もすれ違う。感情が蒸発したみたいな低音単調な乾き声もあいまって異彩を放つ「SI・GE・KI」について椎名本人いわく:「2003年初夏、喉の手術で入院していると、向井くんが最新トラックをお持ちになり、「唄っちゃらんね」と聴かせてくださった。ご本人の仮唄があまりにかっこよいため、「この向井くんのテイクばそのまんま発表しんしゃい」と答えた。以降、ZAZEN BOYSを象徴するアンセムとなった。」

だが、突然「有り得たかもしれない別な未来」を見たくなったという椎名は、2025年盛夏、福井のワンパークフェスで向井と演奏することに。してみると「もう一度聴きたい」とのお声が聴こえて来たので、実に22年の時を経て初めてスタジオ録音を叶えられたという。

有り得たかもしれない別な未来が到来するたび、私は別な私に分裂していく。そんな別な私はジャケットにも棲む。輪郭がほころびかけた椎名林檎像by宇野亞喜良は、生身と記号、現実と仮想、本物と偽物が織りなす喧騒である。

異物たちをぶつけてわかりあったりすれちがったり化学反応する。バベルの喧騒のなかは実験中である。

とはいえ無謀すぎた。「無口なあなたをどうにか理解するため私が取り込む」なんて。通じない言葉さえはじめから奪われている。フランス語どころの話じゃない。翻訳すらできない。実際気づいている。「不可能と知りながら」の消化試合だし、「あなたは最期の最後まで私をろくすっぽ知り得ない」。はじまる前からゲームオーバーで、沈黙と音楽だけが行き交う喧騒未満の場所に立ち尽くす。

やがて雲行きは変わる。「或る日貴方が現れ僅かな会話を持った。すると突然根底から覆されてしまった。」はなから諦めていたはずのカンバーセーションがいきなりはじまってしまう。「貴方の科白に喜びそれを文字で伝える。また次なる貴方の声色を待ち焦がれる。」言葉の逆襲の予感が漂いはじめる。

それは不可能に饒舌に挑む意志である。「愛そうと愛したいと列島行脚参拝」するニンゲンたらんとする勇気でもある。「僕は僕を疑いたがる」のは避けられなくても、そんな懐疑は経験済みだ。どんとこい、「連れ去りたもれ いずこへなりと」。貴方をいったん忘れたっていい。「僕は僕の信頼を」勝ち取れるか。それだけが問題だから。

ひとたびそう覚悟してしまえば「拡張していく不敵な自分」が現れる。「本当の姿公然と誇示したい」と気持ちが外に向けて大きくなったり、「この淵底がいい 埋まっていたい」と内に向けて大きくなったりする。「脳髄から言語を消し去る」のでいいという気にもなってくる。と、言語にする矛盾。カンバーセーションは終わったようで続く。だからこそいつでも言葉を捨ててやるという余裕も生まれてくる。言葉が現れては消える。

夜中の壊れた信号機みたいに点滅する言葉を拝んでいると、ぜんぶ「堂々巡りの最中」でしかないという気もしてくる。「どうせ助かったのなら 愛する人を介してこの世の絶景が拝みたい」し。他人の眼玉を拝借して世界に直撃できるのなら、もう言葉はいらない。言葉は意味を失い、意識は混濁していく。

「かつ東北地方の特産品を一心不乱に食らいながら」「鉄饅頭のような雲」が見えてくると末期である。「素性が分からん男子と朝まで熱唱」したくもなる。「SIGEKI, SIGEKI, SIGEKI, SIGEKI, SIGEKI, SIGEKIが欲しくてたまらんの」だから。ただの性的衝動かもしれないけど。「太古の人類が溺れた或る倒錯」が毎日毎時蘇る。

倒錯の果て。勝負ランジェリーよ。という謎の決意があたりを覆い尽くす。そう、勝負ランジェリーだ。でもそんなアッピールも虚しく、「暗に誑かして置いてこうして無視」されたりもする。すべてはオンラインならなおさらだ。陽気に「チェッ!」そう叫ぶしかなくなってくる。繋ぐChain Ah Ah Ah Ah Ahだ。

ふと覚め醒めすると妙にすっきりしていた。「ご自身の真価は忘れないで」「各自弱点を自覚すればこそ適材適所で分担し合って皆んなの尊厳はお互いが守ってゆかねばなりません」浮かんでくるのは母性が包み込むまっすぐな伝言ばかり。ただそれが語られるのは外国語だけれど。バベルの喧騒の世を憂う言葉は果たして通じたのだろうか、喧騒の藻屑として流れただけだろうか?

歌う音楽こそ人類の禁じ手である。音楽と言葉が共謀し、喧騒で一度はぐれたはずの自分と他者がふたたび出会うことの苦渋をなめる。(無)意味と(不)可能の間でゆらめきつづける中年現役選手の新しく上品な挑戦が『禁じ手』なのである。

とはいえ、その結末は人間的な、あまりに人間的な気もしてくる。

ふと宇宙人のことを思い出す。昔読んだマンガに出てきた気がする宇宙人だ。レベルEだったかな(違うかも)。人間みたいな言語は持たないか捨てたように見えるその宇宙人は、しかし、実に豊かにつながり、コミュニケーションする。粘液したたる触手を伸ばして相手のそれに近づけ、触れたか触れてないのか際どいまま、何かが十分に伝わったかのような納得の空気をあたりに充満させる。無音のままのご満悦だ。

そこに言葉と音楽とセッ久の区別はない。理性と感性の区別、情報と感情の区別も。いや、本当は通じ合えたかどうかさえ、実はどうでもいいのかもしれない。

私たちは宇宙人になれるだろうか。宇宙人になった私たちは、それでも音楽を奏でているのだろうか。その答えをつかむため、人は懲りもせず書き、懲りもせず歌う。半開きの第三の目で特異点後を夢見ながら。

<成田悠輔プロフィール>

経済学者・零細事業者・三流タレント。専門は、データ・アルゴリズム・ポエム・思想を組み合わせたビジネスと公共政策の想像とデザイン。多分野の学術誌・学会に研究を発表、多くの企業や自治体と共同事業を行う。報道・討論・お笑い・アート・ファッションなど多様な動画や雑誌の企画や出演にも関わる。著書『22世紀の資本主義:やがてお金は絶滅する』『22世紀の民主主義:選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる』、番組「成田悠輔と愛すべき非生産性の世界」「夜明け前のPLAYERS」「成田悠輔の聞かれちゃいけない話」「walk」「書く気がおきない」など。音楽はどどど素人。世間でやたらチヤホヤされてるミュージシャンたちに心から嫉妬している。