萩原朔太郎は詩集『月に吠える』の序文でこう書いている。理屈では解きほぐすことのできない、言葉を連ねても届かない感情の機微を、詩は、電流のように伝えることができる。そういう美学を宣言している。ヨルシカの「月に吠える」は、大正時代に口語自由詩の新たな表現領域を開拓した詩人の処女作にオマージュをささげた一曲だ。 Text:柴那典/音楽ジャーナリスト
だからこそ、言葉だけでなく、サウンドにもその精神性が込められている。開始1秒からわかる。咳の声にキック数発。冒頭から耳が惹きつけられる。隙間のある音空間に、リズムの仕掛けが沢山散りばめられている。吐息やボイスサンプルを巧みに用い、suisのヴォーカルも含めて、点と点が支え合うようなアンサンブルが構築されている。
曲の主人公の「おれ」は、孤独の中、自らの内奥に獣を住まわせている。月の見える深い夜。人々の日々の暮らしや、世の中の規範や良識や、そういう全てを振り払うように「吠える」。その描写には不思議な解放感や全能感が宿っている。歌詞の中には「月に吠えるように歌えば」という言葉が繰り返し登場するが、それを受けるのは、「鮮やかに」「艶やかに」「我が儘にお前の思うが儘に」というフレーズだ。そこには、ある種のピカレスクロマンにも通じる痛快さがある。「悪意」という言葉が歌詞に出てくるのもポイントだろう。
そして、ハッとさせられるのは、後半の展開だ。それまでと変調し下降していくコード進行に「皆おれをかわいそうな病人と、そう思っている!」と不穏なメロディに乗せてsuisが歌う。この箇所が、隠し持った鋭い刃のように響く。
コンポーザーのn-bunaは、かねてから近代文学や、歌人、俳人からの影響を広言してきた。これまでのヨルシカの作品でも数々の引用を忍ばせてきた。しかし、よりストレートに作品のタイトルを重ねる「又三郎」「老人と海」「月に吠える」といったデジタルシングルの新曲では、今まで誰もやったことのない形で、近代と現代を橋渡ししているようにも思う。そういう挑戦の部分も、とても面白い。