オール・アバウト・アビイ・ロード:作品解説

1969年9月26日にザ・ビートルズのアルバム『アビイ・ロード』が発売されてから50年、今年9月27日に発売される50周年記念エディションの内容や聴きどころを、アルバムにまつわるエピソード等も交えながら解説。

その後のビートルズ(最終回/10/10 UP)

1969年1月のほぼ1か月かけて行なわれた“ゲット・バック・セッション”は、結果的に28時間分のテープと96時間分のフィルムが残された。その後、一向に「形」にならないまま『アビイ・ロード』の制作を優先させたビートルズだったが、『アビイ・ロード』発売後には、解散に向けての足音が徐々に聞こえてくるようになった。

“ゲット・バック・セッション”をまとめた未発表アルバム『ゲット・バック』は、紆余曲折を経て映画『レット・イット・ビー』と、そのサウンドトラック・アルバムとして制作される流れとなり、『アビイ・ロード』の作業真っただ中の7月20日にはラフなフィルム上映会がメンバー立会いのもとに行なわれた。

こうして未発表アルバムを横目に見ながら、4人は「最後」を自覚して臨んだ新作『アビイ・ロード』の制作を続けてきたが、『アビイ・ロード』発売直前の9月20日、アラン・クラインを交えたビートルズとアメリカ・キャピトル・レーベルとの再契約の場で、ジョンの脱退宣言が飛び出した。
「ビートルズの今後についてポールが話すことすべてに『ノー、ノー、ノー』と言った。ポールが『どういう意味だい?』と聞くので、こう告げたんだ。『お前はアホだ。もうグループは終わりってことだ。俺は抜けるよ』って」(ジョン)

アラン・クラインからの要請で、この事実はいっさい公表されなかったが、ジョンの言葉にショックを受けたポールは、スコットランドの農場に引きこもってしまった。 「つらい時期だった。このままじゃ死んでしまうと思ったね。それで、“君らはクラインとやっていけばいい。僕はアップル・レーベルから抜けたい”と伝えた」(ポール) ジョンは、脱退宣言をする1週間前の9月13日に、トロントで開かれたロックンロール・リヴァイヴァル・ショーにプラスティック・オノ・バンドで出演した。ヨーコ、エリック・クラプトン、クラウス・フォアマン、アラン・ホワイトとビートルズでもカヴァーした「マネー」「ディジー・ミス・リジー」のほかに、7月にプラスティック・オノ・バンドのデビュー・シングルとして発表した「平和を我等に」や新曲「コールド・ターキー」などを披露したが、ジョンはビートルズ以外の、ヨーコを加えた流動的なバンドでやることに「未来」を見出したのかもしれない。

こうして70年1月3日、映画に収録されることになった「アイ・ミー・マイン」をレコーディングするために、ジョン脱退後の3人は、アビイ・ロード・スタジオに集まった。これが「ビートルズ」(俗に言うスリートルズ)としての最終レコーディングとなった。目的はもちろん、最後のオリジナル・アルバム『レット・イット・ビー』の完成のために、である。

『アビイ・ロード』が 与えた影響 ~売上や人気度、ジャケットのパロディなど客観的な事実を中心に…。(10/3 UP)

初期の『ハード・デイズ・ナイト』(64年)や中期の『リボルバー』(66年)をはじめ、ビートルズには名盤が数限りなくある。そうした中で、『アビイ・ロード』(69年)は、“20世紀のロック”を代表する一枚として、『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(67年)と並び評されることが多い。最後のスタジオ・レコーディング・アルバムであるというのも、大きな理由だろう。

『アビイ・ロード』は、1969年9月26日にイギリスで発売されるとすぐさま大ヒットとなり、イギリスのアルバム・チャートでは17週連続で1位を記録した。アメリカでも10月1日に発売され、ビルボードのアルバム・チャートで11週連続で1位を獲得している。 エンジニアのジェフ・エメリックとフィル・マクドナルドは、その年のグラミー賞の最優秀アルバム技術賞(クラシック以外)を受賞し、1995年には、『アビイ・ロード』は“歴史的な重要作や長年品質が保たれている作品”に送られるレコーディング・アカデミーのグラミー殿堂賞も受賞している。

内容の良さは言うまでもないが、印象的なジャケットや、最後のスタジオ録音作であるということも、アルバムの評価や人気に拍車をかけている。

売り上げに関しても、以前は最後のオリジナル・アルバム『レット・イット・ビー』(70年)のほうが人気が高かったが、とくに2009年にCDのデジタル・リマスター盤が出た後は、『アビイ・ロード』は2009年11月のビートルズの全世界での売上1位となった(2位は『サージェント・ペパーズ』)。

また、ある調査によると、ビートルズのアメリカでのアルバム売上枚数は、1位が『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』(2300万枚)で、2位が『ザ・ビートルズ1967年~1970年(青盤)』(1700万枚)、『アビイ・ロード』は1600万で3位らしい(以下、4位は『サージェント・ペパーズ』と『ザ・ビートルズ1962年~1966年(赤盤)』が1500万枚で、『ザ・ビートルズ 1』が1100万枚、『ラバー・ソウル』が1050万枚)。

『アビイ・ロード』は、パロディ・ジャケットに関しても、ビートルズのアルバムの中で最上位となる人気だ。4人のハーフ・シャドウが斬新な『ウィズ・ザ・ビートルズ』(63年)と、手の込んだ『サージェント・ペパーズ』、それに『アビイ・ロード』が、最も数の多いビートルズのパロディ・ジャケットになるが、『アビイ・ロード』の人気の高さは、「真似しやすさ」にあるのかもしれない。ポールが『ポール・イズ・ライヴ』(93年)でセルフ・パロディ・ジャケットを自ら作ったぐらいだし、他にも、『アビイ・ロード』発売直後にジョージ・ベンソンがそのうちの10曲をカヴァーした『アビイ・ロード(The Other Side Of Abbey Road)』(69年)や、レッド・ホット・チリ・ペッパーズの『アビイ・ロード E.P.』(88年)をはじめ、名高いパロジャケがたくさんある。

サウンド的には8トラックの機材ですべてレコーディングされたビートルズ唯一のアルバムであり、B面のメドレーを含むロック・オペラ的な仕上がりは、70年代以降の組曲仕立てのアルバム作りや、管弦楽を取り入れたシンフォニック・ロック的サウンド作りにも大きな影響を与えた。

また、アルバムの評価だけでなく、撮影されたスタジオは、『アビイ・ロード』の大ヒットの影響もあり、「EMIレコーディング・スタジオ」から「アビイ・ロード・スタジオ」へと改称された。

ジャケットに登場するスタジオ前の横断歩道は、その後、現在に至るまで世界でも有数の観光地となった。2010年12月には、建物以外では初めてイギリスの文化的・歴史的遺産に指定された。ビートルズの4人が渡ってからちょうど50年目となる2019年8月8日、横断歩道前は3500人の人であふれかえり、インターネットだけでなく、日本も含めてテレビで報道されたり、新聞でも記事になったりと、変わらぬ人気ぶりを世界にアピールした。

50周年記念エディション「セッションズ」の聴きどころについて その4(9/26 UP)

CD3 - 2

8. ビコーズ(テイク1 インストゥルメンタル)
8月1日にレコーディングされた、『アビイ・ロード』用に書かれたジョンの2曲目。『アンソロジー 3』には3人のヴォーカルのみのアカペラ・ヴァージョンが収録されていたが、ここにはリンゴのカウントに導かれて始まるテイク1が収録されている。ジョンのエレキ・ギターとジョージ・マーティンのエレクトリック・ハープシコードを中心としたインストゥルメンタルである。

9. ザ・ロング・ワン(トライアル・エディット&ミックス 1969年7月30日)
『アビイ・ロード』の制作も終了が近づいてきたため、LPのB面メドレーを試しに編集してみることになり、7月30日にその作業が行なわれた。作業時は“「ザ・ロング・ワン」/「ヒュージ・メドレー」(The Long One/Huge Medley)”と呼ばれていたそのミックスが、この音源である。
注目は、当初「ミーン・ミスター・マスタード」と「ポリシーン・パン」の間に入れてあった「ハー・マジェスティ」が、そのままの形で聴けることだ。それだけではなく、たとえば最終的にカットされたコーラス入りの「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」や、曲のエンディングでジョンの余分なセリフが聴ける「ポリシーン・パン」、ジョージ・マーティンのアレンジによるストリングスとブラスがまだ入っておらず、ポールの歌いまわしも一部異なる「ゴールデン・スランバー/キャリー・ザット・ウェイト」、そしてヴォーカルが全く入っていない「ジ・エンド」など、聴きどころ満載である。

10. サムシング(テイク39 インストゥルメンタル- ストリングス・オンリー)
セッション終盤の8月15日に行なわれたオーケストラのダビング・セッションの中から、「サムシング」のテイク39に加えられたストリングスだけのインストゥルメンタルが聴ける。これも一足先に配信音源として公表された。

11. ゴールデン・スランバー/キャリー・ザット・ウェイト(テイク17 インストゥルメンタル ストリングス&ブライス・オンリー)
前の「サムシング」と同じく、8月15日にダビングされた、こちらはテイク17にストリングスとブラスを加えたインストゥルメンタル音源である。

50周年記念エディション「セッションズ」の聴きどころについて その3(9/19 UP)

CD3 - 1

1. カム・トゥゲザー(テイク5)
ジョンの復帰後、最初の新曲。『アンソロジー 3』にはテイク1が収録されていたが、このテイク5もジョンはやる気満々のヴォーカルを聴かせ、他のメンバーをぐいぐい引っ張る様子が伝わってくる(7月21日収録)。曲の骨格がすでに完璧に出来上がっており、次のテイク6がOKテイクとなった。

2. ジ・エンド(テイク3)
『アンソロジー 3』にはギターとオーケストレーションが大々的にフィーチャーされた別ミックス音源が収録されていたが、今回はドラム・ソロがすべて異なるという全7テイクのうちのテイク3を聴くことができる。ジョンのカウントに導かれて破壊力抜群のパワフルなロックに圧倒される。

3. カム・アンド・ゲット・イット(スタジオ・デモ)
7月24日、この日もスタジオに一人で早めにやってきたポールが、全員が揃う前にアイヴィーズ用に作ったデモ・テイク。ピアノ、マラカス、ドラム、ベースを一人で多重録音し、1時間で仕上げた。その9日後にアイヴィーズがデモそっくりにポールのプロデュースでレコーディングした(ポールもピアノとマラカスで参加)。バンドはバッドフィンガーに改名し、映画『マジック・クリスチャン』の主題歌として大ヒットした。『アンソロジー 3』にも収録されていたが、今回はステレオ・ミックスでの初収録である。

4. サン・キング(テイク20)
「カム・アンド・ゲット・イット」の作業後、スタジオに揃った4人でレコーディングした曲。「ヒア・カムズ・ザ・サン・キング(Here Comes The Sun-King)」のタイトルで「ミーン・ミスター・マスタード」とのメドレーで演奏されたテイク20がついに初登場である。オフィシャル・ヴァージョンよりもさらにゆるい演奏が楽しめる。

5. ミーン・ミスター・マスタード(テイク20
「サン・キング」とのメドレーで登場するが、一聴してテンポがかなり遅いことがわかる。歌っている合間に合いの手のセリフを口ずさむジョンのフレーズが刺激的で面白い。

6. ポリシーン・パン(テイク27)
続いて翌7月25日に、「ポリシーン・パン/シー・ケイム・イン・スルー・ザ・バスルーム・ウィンドウ」のメドレーとしてレコーディングされた、これもまた貴重なテイク27の音源が初登場となった。曲の出だしを確認中にリンゴが叩くドラムを聴いて「デイヴ・クラーク・ファイヴみたいだ」とジョンが皮肉っぽく笑いながらしゃべっている様子も入っている。ジョンの激しいカウントで、息をつかせぬエネルギッシュな演奏が展開される。

7. シー・ケイム・イン・スルー・バスルーム・ウィンドウ(テイク27)
ジョンの「ポリシーン・パン」とのメドレーで歌われるポールの曲。ベーシック・トラックなのでポールのヴォーカルはシングル・トラックで、ジョンのアコースティック・ギターもよく聞こえる。

50周年記念エディション「2019 ステレオ・ミックス」と「セッションズ」の聴きどころについて その1&2(9/5,12 UP)

すでに伝えられているように、『アビイ・ロード』の50周年記念エディションに収録された「2019 ステレオ・ミックス」は、プロデューサーのジャイルズ・マーティンとミキシング・エンジニアのサム・オケルが、アルバム収録曲をステレオ、ハイレゾ・ステレオ、5.1サラウンド、そしてドルビー・アトモスでミキシングし直したものだ。
そして、未発表音源をまとめた「セッションズ」は、69年2月から8月までにレコーディングされた曲のなかから、初登場の23曲のレコーディング時の珍しい音源を収録したものである。

それぞれの印象を大まかに書き記すと、「2019 ステレオ・ミックス」は、これまでの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』や『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』の50周年記念エディションほどの変化はない。『アビイ・ロード』収録曲がEMIスタジオで8チャンネルのレコーディング機材で収録されたため、音の広がりや粒立ちが、もともとそれ以前の(特にリマスター盤以降の)アルバムとの差異が小さいためだ。曲によっては各楽器やヴォーカル、コーラスなどの定位が変わったものもあるが、さらに抜けがよくなったと思える。

「セッションズ」は、そもそも『アビイ・ロード』の録音自体、当時の4人の状況を含め、曲のアレンジやサウンドをじっくり練り上げる時間がなかったため、それほど多くの未発表音源を望むのが厳しいと思われた。だが、通して聴いてみると、ダビングされる前のベーシックな演奏や前後のやりとりに、いいアルバムに仕上げようという4人の結束が感じられる。とはいえ、4人が揃っていない曲も多く、ポールとジョージとリンゴが一所懸命作業をし、気まぐれなジョンがセッションにやってきてそこに加わった印象もある。しかも、そこがジョンのすごさかもしれないが、ジョンが加わると、一気にすべて持って行ってしまうような、だれもジョンには叶わないような雰囲気が生まれるのだ。「セッションズ」の面白さは、実はそうした「4人の距離感」なのかもしれない。
「セッションズ」は、いわば制作過程の各曲のドキュメンタリー音源の集大成と言えるものだ。『アビイ・ロード』が名盤となる過程を味わえる初登場の音源が目白押しなので、これでも物足りないと思えるほどの充実した内容となっている。

CD 2: セッションズ

1.アイ・ウォント・ユー (トライデント・レコーディング・セッション&リダクション・ミックス)
ディスク2と3に収録された“レア・トラックス”全23曲のうち、いきなりその最高峰の演奏が登場する。ジョンの問いかけに「テイク4がベストだ」とジョージ・マーティンが答えたり、近所の住人の苦情にジョンが「誰だよ、次がでかい音でやる最後のチャンスだ!」と言ったりと、臨場感たっぷりのやりとりがまずすごい。 2月22日にトライデント・スタジオで録音された演奏がそれにも増してすさまじく、特にジョンのヴォーカルにやられてしまう。エンディングは4月18日と20日にビリー・プレストンが加えたハモンド・オルガンがフィーチャーされ、混沌としたエンディングまで息をつかせぬ展開となっている(『LOVE』収録の「レディ・マドンナ」でもその部分がフィーチャーされていた)。

2.グッドバイ (ホーム・デモ)
「グッドバイ」は、アップルから「悲しき天使」でデビューしたメリー・ホプキンにポールが送ったアコースティック・バラードの名曲。なぜか『アンソロジー 3』に収録されなかったが、「アイ・ウィル」を彷彿させるアコースティック・デモ(1969年2月録音)が今回初めて公表される。

3.サムシング (スタジオ・デモ)
『アンソロジー 3』には69年2月25日録音のギターとヴォーカルだけのデモ・ヴァージョンが収録されたが、今回初登場の音源は、そこにピアノやギターが加えられた演奏となっている。今回の50周年記念盤に先駆けて、配信音源が公表された。

4.ジョンとヨーコのバラード (テイク7)
ジョンとヨーコの結婚式(69年3月20日)を題材にして、ジョンとポールが2人で69年4月14日に1日で仕上げ、5月30日に「ビートルズ」のシングルとして発売された曲。その日はジョージはアメリカ旅行中で、リンゴは映画『マジック・クリスチャン』撮影中だったために参加できなかったが、むしろポールと2人でいいから早く録音したいとジョンが思ったということだろう。
これまでに未発表テイクはひとつも公表されていなかったが、今回はテイク7が収録されている。冒頭にはアコースティック・ギターの弦が引っかかって中断した際のジョンのコメント(テイク2)や、ジョンとポールの有名な掛け合い(テイク4の開始前)なども加えられている。二人で音を重ねていった曲だが、ここではジョンはアコースティック・ギターを弾きながら歌っている。ポールが何を演奏しているかは聴いてのお楽しみ。

5.オールド・ブラウン・シュー (テイク2)
シングル「ジョンとヨーコのバラード」のB面に収録されたジョージの曲。『アンソロジー 3』には「サムシング」と同じく69年2月25日に録音されたピアノとギターのデモ・ヴァージョンが収録されていたが、今回は4月16日にバンドで初めて演奏したテイク2が収録されている。すでにオフィシャル・ヴァージョンに近い演奏で、ヴォーカルも大きな違いはない。ジョージが自分でダビングしたベースのフレーズをギターで弾いているのも興味深い。


「セッションズ」聴きところ その2(9/12 UP)

6.オー!ダーリン(テイク4)
2月22日の「アイ・ウォント・ユー」に続き、『アビイ・ロード』収録曲では2曲目となるポール作の「オー!ダーリン」に4人が取り掛かったのは、4月20日のことだった。『アンソロジー 3』には「ゲット・バック・セッション」でジョンと一緒に歌っているセッション音源が収録されていたが、今回は初登場のテイク4である。ポールのカウントに導かれて始まるベーシック・トラックは、ポールが何度も歌い続けて声をつぶして録音した収録テイクに比べるとまだまだ軽い仕上がりだが、バンドのまとまりが伝わる好演となっている。これを聴くと、メンバーの立ち位置などから、ポールがピアノを弾き、ジョンがベースを弾いているように思える。

7.オクトパス・ガーデン(テイク9)
続いて4月26日には、ジョージが手を貸したリンゴの「ドント・パス・ミー・バイ」に続く自作曲に着手した。『アンソロジー 3』にはテイク2(演奏後にテイク8のコメントを追加)が収録されていたが、ここではリンゴが間違えて途中でサビのフレーズを早めに歌ってしまい、中断して苦笑いするテイク9が楽しめる。

8.ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー(テイク36)
続いて『アビイ・ロード』のメドレーの始まりとなったポールによる大作が登場。レコーディングは5月6日に行なわれたが、ここには最後のテイク36が収録されている。曲が始まる前のポールのしゃべりも面白い。さすがに歌い込みすぎたのか、ポールの声が枯れ気味で、歌いまわしもところどころ異なる。

9.ハー・マジェスティ(テイク1‐3))
『アビイ・ロード』の制作が本格的に始まったのは7月1日で、その日はポールが一人で「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」のテイク30に追加レコーディングを行なったが、その翌日の2日にもポールが先にスタジオに足を運び、まず収録したのがこの「ハー・マジェスティ」だった。実際のレコーディングと同じく、3テイクすべてが今回公表された。

10.ゴールデン・スランバー/キャリー・ザット・ウェイト(テイク1‐3)
このメドレーは、7月2日に「ハー・マジェスティ」収録後にスタジオにやってきたジョージとリンゴも加わってレコーディングされたもの。その最初の3テイクが収録されている。テイク1がまさかこんな演奏だったとは!

11.ヒア・カムズ・ザ・サン(テイク9)
ジョージのこの曲がレコーディングされたのはリンゴの29歳の誕生日(7月7日)だったが、交通事故でまだジョンはスタジオに顔を見せていない。モーグ・シンセサイザーやストリングスなどはもちろんまだ加えられていない軽快なテイク9が聴ける。

12.マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー(テイク12)
ジョンがセッションに復帰した7月9日にレコーディングされた曲。『アンソロジー 3』にはテイク5が収録されていたが、ここにはテイク12が収録されている。曲の最初にリンゴとジョージに演奏の指示を出すポールの様子が興味深い。モーグ・シンセサイザーや鉄床はもちろん入っていない。

その3:アートワーク(8/29 UP)

「ビートルズのアルバム」だと知らなくても、ジャケットは知っている――レコード・ジャケットの中で世界で最も有名な1枚。それも、『アビイ・ロード』が語り継がれる名盤として位置づけられる大きな理由のひとつだろう。ぱっと見たら、4人が横断歩道を揃って渡っただけの写真、ではあるものの、よくよく見てみると、面白いエピソードがそこにはたくさん隠されている。

では、『アビイ・ロード』のジャケットがなぜ生まれたのか、まずはその背景から書き進めてみる。まずアルバム・タイトル。もともとはビートルズのレコーディング・エンジニアのジェフ・エメリックが吸っていたタバコ「エヴェレスト」をタイトルにしたらどうかという案が出た。実際に山麓まで行こうという話にもなったが、あまりに遠すぎるし、撮影時間もない。そこでリンゴが(ポール説もあり)、スタジオの外にちょっと出て、そこで写真を撮り、アルバム・タイトルを通りの名前(アビイ・ロード)にするという案を出し、横断歩道を渡るスケッチも自ら描いた。

こうしてアルバム・タイトルとジャケット案が決まり、レコーディングの合間を縫って、実際に撮影することになった。カメラマンに選ばれたのは、ヨーコと親交のあったスコットランド生まれのイアン・マクミランだった。そして69年8月8日(金)。午前10時から徐々にスタジオ前に顔を揃えた4人は、11時35分からの10分、居合わせた警官が交通を遮断する中、3往復し、それを道路中央に三脚を立てたイアン・マクミランが計6枚撮影した。今ではそのすべてを目にすることができるが、それを見ると、ジャケットに使われたのは5番目にスタジオを背にして歩く写真だったことがわかる。他の写真と見比べてみてすぐに目につくのは、その写真だけ奇跡的に4人の頭から足までが、全体の構図も含めて見事にバランスよくカメラに収まっていることだ。

ポールは3カット目にサンダルを脱いで裸足になり、タバコを手に持って歩いたが、それがアルバム発売後にアメリカでまず広まった「ポール死亡説」の理由のひとつとなった。曰く「ポールが1人だけ目をつぶって裸足であり、左利きなのにタバコを右手に持っている」と。他にも、例えば路上に駐められたフォルクスワーゲンのナンバープレートの「28IF」は「もしポールが生きていたら28歳」を表わしている、などなど、世界中を巻き込む大騒動へと発展した。対してポールは24年後の93年、再びイアン・マクミランに依頼し、ライヴ・アルバム『ポール・イズ・ライヴ』のジャケットを『アビイ・ロード』のパロディ仕立てにした。その際、ナンバープレートの文字を「51IS」(生きているから51歳)にしている。アルバム名も、「生きていること」と「ライヴ盤であること」をかけた洒落である。

裏ジャケットの写真は、イアンがスタジオからそこそこ距離のある場所まで前もってロケを行ない、いくつかある“ABBEY ROAD”の表示のある塀を撮影したものだが、青い服の女性がたまたま横切った写真が採用され、“ABBEY ROAD”は“BEATLES”に後で合成されている。こうしてアルバム『アビイ・ロード』のアートワークは無事に仕上がった。ジャケットに文字がいっさい表記されていないのは、トータル・アルバムとしての意味合いの近い『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に倣ったためかもしれない。

『アビイ・ロード』は、パロディ・ジャケットに関しても、ビートルズのアルバムの中で最上位となる人気で、撮影されたスタジオ前の横断歩道は、世界でも有数の観光地となった。2010年12月には、建物以外では初めてイギリスの文化的・歴史的遺産に指定された。ちょうど50年目となる2019年8月8日、横断歩道前は3500人の人であふれかえり、変わらぬ人気ぶりを世界にアピールした。

その2:作品の位置づけ(8/22 UP)

「ビートルズ物語」が面白いのは、例えばライヴやアルバム制作時のエピソードが豊富にあり、私生活を含む言動のすべてが刺激的で飽き足らず、そうした事象が目まぐるしく、まさに激動の日々として進んでいったからだ。しかも、それらがデビューから解散までのわずか8年間に起こり、時代を味方に引き入れながら、個性的な登場人物との「喜怒哀楽」が数多くそこにまぶされているのだ。

そんな「ビートルズ物語(現役編)」の最終章に位置するのが、レコーディング作品で言えば、『アビイ・ロード』ということになる。ジョンがその時どこまで本気だったかはわからないが、少なくとも4人が力を尽くし、66年の『リボルバー』以後、数多くの名曲・名盤を生み出してきたジョージ・マーティンとジェフ・エメリックのコンビが、オリジナル・アルバムで言えば67年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』以来、きっちりと完成まで導いたアルバム――それが『アビイ・ロード』だった。

とはいえ、制作当初からニュー・アルバムを意識して4人がスタジオに入ったわけではない。69年1月に行なわれた“ゲット・バック・セッション”をアルバム『ゲット・バック』や映画としてどのようにまとめるのかは、特にジョンとポールの意向次第であり、その一方で、ジョンはヨーコとの「行動」を最優先し、ビートルズとしての活動以外へと比重を増していった時期でもあったからだ。

そうした状況の中で、結果的に『アビイ・ロード』に収録されることになる曲の中で最初に取りかかったのは、2月22日にトライデント・スタジオでレコーディングが開始された「アイ・ウォント・ユー」だった。そして4月には「オー!ダーリン」と「オクトパス・ガーデン」が収録されたほか、20枚目のオリジナル・シングルとして5月に発売されることになる「ジョンとヨーコのバラード」と「オールド・ブラウン・シュー」もその時期にレコーディングされている。

完成されないままの『ゲット・バック』に代わるニュー・アルバムの制作をポールがジョージ・マーティンに依頼したのは、おそらく4月から5月にかけての時期だったのだろう。5月2日の「サムシング」の最初のセッションはクリス・トーマスが立ち会ったが、5月6日のオリンピック・サウンド・スタジオでの「ユー・ネヴァー・ギヴ・ミー・ユア・マネー」のセッション以降は、ジョージ・マーティンとジェフ・エメリック(エンジニアにはフィル・マクドナルドも)がセッションを仕切るようになる。7月1日からはニュー・アルバムを意識したセッションとなり、アビイロード・スタジオ(当時の呼び名はEMIレコーディング・スタジオ)での集中的な作業が続いた。

「ゲット・バック・セッション」で断片的に取り上げられた曲も中にはあったが、ポールとジョージ・マーティンのアイディアにより、『サージェント・ペパーズ』と同じようなトータル・アルバム仕立てになり、LPのA面にはメンバーの個別の曲を、B面3曲目からは断片を集めたメドレー形式で曲をまとめ、ドラマチックな構成へと見事に昇華する内容となった。

最終作業は8月25日に終了し、アルバムは9月26日に発売された。イギリスでは17週連続1位、アメリカでも11週連続1位を獲得する大ヒットとなり、エンジニアのジェフ・エメリックとフィル・マクドナルドは、グラミー賞の最優秀アルバム技術賞(クラシック以外)を受賞した。95年には、“歴史的な重要作や、長年、品質が保たれている作品”に贈られるレコーディング・アカデミーのグラミー殿堂賞も受賞している。

その1:発売までの流れ(8/15 UP)

『アビイ・ロード』発売から50年。ザ・ビートルズの最高傑作と言われるこの名盤について、まずは発売までの流れを追ってみる。

67年8月のマネージャー、ブライアン・エプスタインの死後、まるですべてが負の方向へと転がり落ちていくように、バラバラになっていく4人。そうした状況に危機感を覚えたのはポールだった。ポールがそう思わずにはいられなかったのは、年が経つごとにジョンとの距離があまりに遠のいていったからだ。

そうした状況で迎えた69年は、ビートルズが解散への道をまっしぐらに進む激動の1年となった。始まりは“ゲット・バック・セッション”である。「もう一度、昔のように」――そんなポールの思いとは裏腹に、ジョンだけではなく、ジョージともリンゴとも距離ができる結果となった。とはいえ、1月のほぼ1ヵ月かけて行なわれたセッションでは、28時間分のテープと96時間分のフィルムが残された。

その音源は、アルバム『ゲット・バック』から『レット・イット・ビー』へ、また映像は、当初のテレビ・ドキュメンタリーから映画『レット・イット・ビー』へと徐々に形を変えていくことになるが、それはまだまだ先の話だった。

アルバム『ゲット・バック』の実務はグリン・ジョンズが任され、2月から作業を続けていったが、一向に形にならない。その間の3月12日にポールとリンダ、3月20日にはジョンとヨーコがそれぞれ結婚するという私生活での動きもあった。ジョンはヨーコと2人で68年以降、積極的に実践してきた平和運動をさらに推し進めるためにハネムーンを平和・反戦運動の宣伝のために利用し、マスコミに報道してもらおうと考えた。そうして3月25日から31日にかけて、アムステルダムのヒルトン・ホテルで2人が行なったのが“ベッド・イン”である。

そして4月11日、“ゲット・バック・セッション”からの最初の成果として、「ゲット・バック」と「ドント・レット・ミー・ダウン」を収めたシングルが発売された。さらにジョンとポールは新たなレコーディングを行なう。それが4月14日に2人で臨み、わずか1日で仕上げた「ジョンとヨーコのバラード」だった。2人はさらに、67年にレコーディングした未発表のインストゥルメンタルを引っ張り出し、4月30日に仲良くヴォーカルを取り合った。曲は、最後のオリジナル・シングル「レット・イット・ビー」のB面に収録された「ユー・ノー・マイ・ネーム」である。

4月30日のセッションでは、ジョンとポールとは別にジョージもクリス・トーマスのプロデュースの元、アビイ・ロード・スタジオで「レット・イット・ビー」にギターをオーヴァーダビングしている。「ジョンとヨーコのバラード」は、「ゲット・バック」に続くシングルとして5月30日に発売された(B面はジョージ作の「オールド・ブラウン・シュー」)。

バンド崩壊への道を緩やかに、しかし確実に進むビートルズ。そんな状況の中、5月13日には、マンチェスター・スクエアにあるEMIハウス(本社)で『ゲット・バック』のジャケット写真の撮影も行なわれた。カメラマン(アンガス・マクビーン)も場所も構図も、すべてデビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』と同じにするというアイディアは、ビートルズならではの“身のこなしの柔らかさ”の反映でもあった。しかしポールは、この撮影時に初めて解散が近いことを実感したという。この写真の別カットはのちにベスト盤『ザ・ビートルズ1962年~1966年』(通称“赤盤”) 、『ザ・ビートルズ1967年~1970年』(通称“青盤”)に転用された。

5月28日に『ゲット・バック』はいったん完成したものの、散漫な演奏に4人は満足できず、そのまま棚上げになってしまう。バンド崩壊が現実のものとなりつつある現在、最後はきっちり締めくくりたい――ビートルズよりもヨーコとの活動を優先するジョンに対し、さらに危機感を募らせたポールは、このころすでに、水面下で次の行動に出ていた。68年の『ザ・ビートルズ(通称“ホワイト・アルバム”)』制作途中で休暇に入り、“ゲット・バック・セッション”でも中心的な役割を果たしていなかったプロデューサーのジョージ・マーティンに、「新作のプロデュースをしてほしい」と申し出たのだ。「特にジョンが積極的に関わるならば」という条件付きでポールの提案をマーティンは受け入れたのだった。

『ゲット・バック』の仕上がりを横目に見ながら、“別のニュー・アルバム”『アビイ・ロード』の本格的なレコーディングが、こうして始まった。それ以前に、まだアルバム用の曲という認識はない状況でレコーディングが始まっていたのは、「オー!ダーリン」「オクトパス・ガーデン」「アイ・ウォント・ユー」の3曲だった。いずれも“ゲット・バック・セッション”ですでに演奏され、4月18日から5月2日にかけてのセッションはクリス・トーマスが立ち会っているが、5月5日以降のセッションは、すべてジョージ・マーティンが仕切っている。ということは、ポールはジョージ・マーティンに、実質的なラスト・アルバムのプロデュースを4月には依頼していたのだろう。

だが、ポールのそんな思いなどどこ吹く風とばかりに、ジョンは6月1日に、ヨーコとの平和運動の実践でもある2度目の“ベッド・イン”をモントリオールで行ない、その場で「平和を我等に」をレコーディング。プラスティック・オノ・バンドのデビュー・シングルとして、『アビイ・ロード』の本格的な制作開始直後の7月4日に発表した。ジョンがヨーコとの音楽活動を優先しつつあったのは、誰の目にも明らかだった。

『アビイ・ロード』のセッションは7月1日から本格的に始まり、ジェフ・エメリックもエンジニアに復帰、約2ヵ月かけてアルバムは完成した。8月8日には、スタジオの前の横断歩道を4人が揃って歩くジャケット写真が撮影され、20日には曲順決定などのためにスタジオに集まり(スタジオに出揃った最後の日)、さらに22日にはジョンの自宅で4人揃っての最後のフォト・セッションが行なわれた。

有終の美を飾る最後のスタジオ・レコーディング・アルバム『アビイ・ロード』は、9月26日に発売された。そして発売半世紀後の現在でも、ビートルズの最高傑作として、印象的なジャケットも含めて高い評価を受け続けている。


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