ベートーヴェン生誕250周年記念サイト

Chronology

ベートーヴェン年表

【1770年】(0歳)
12月16日(正確な日付を裏付ける資料は無く、あくまで推定)、テノール歌手の父ヨハンと母マリア・マグダレーナの次男として、ボンに生まれる。17日に聖レミギウス教会で洗礼を受ける。
【1774年】(3歳)
この頃から、父に音楽の手ほどきを受け始める。
【1778年】(7歳)
記録に残っている限りでは最初の公開演奏会をケルンで開催。「様々なクラヴィーア協奏曲やトリオ」を披露した。
【1779年】(9歳)
10月、クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェがボンヘ移住。少年ベートーヴェンのオ能を認め、対位法と通奏低音を教授し始める。
【1782年】(11歳)
 初の出版作品となる《ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲》WoO63を発表。
【1787年】(16歳)
3月から5月にかけて、私淑するモーツァルトに対面するため、初めてウィーンを訪問したほか、ミュンヘンやアウクスブルクに滞在。
7月、母マリア・マグダレーナが死去
【1790年】(19歳)
12月25日、ロンドン行きの途上にボンヘ立ち寄った、ヨーゼフ・ハイドンと知り合う。
【1792年】(21歳)
7月、ウィーンヘの帰途、ボンを訪れたハイドンと再会。弟子入りを乞い、許される。
11月2日頃、ウィーンヘ向けてボンを出発し、10日頃に到着。
12月18日、父ヨハン死去。
【1794年】(23歳)
1月19日、師ハイドンが2度目のロンドン訪問へ出発。対位法の大家ヨハン・ゲオルク・アルブレヒツベルガーに、作曲の師事を始める。
【1795年】(24歳)
3月、「ピアノ協奏曲第1番」作品15と「同第2番」作品19を初演。
5月、ウィーンで初の本格的な出版作となる「ピアノ三重奏曲第1〜3番」作品1の告知を、「ウィー ン新聞」に掲載。実際の出版は、7〜8月頃に行われた。
5〜6月「チェロ・ソナタ第1番&第2番」作品5を完成。
8月末、ハイドンが帰国。師への感謝を込めた「ピアノ・ソナタ第1〜3番」作品2が披露される。
【1796年】(25歳)
2〜7月、プラハからドレスデン、ライプツィヒ、ベルリンを巡る演奏旅行へ。
【1798年】(27歳)
春頃に「ピアノ・ソナタ第5~7番」Op.10「弦楽三重奏曲」Op.9「ヴァイオリン・ソナタ第1~3番」Op.12が完成。
10月半ば、プラハを訪れ、「ピアノ協奏曲第1番」「同第2番」を披露。
この頃から、聴力の低下を自覚し始める。
【1799年】(28歳)
10月頃、「ピアノ・ソナタ第8番《悲愴》」作品13を出版。
【1800年】(29歳)
当年初頭までに「弦楽四重奏曲第1〜6番」作品18が完成。
4月、当代ーのホルンの名手、ジョヴァンニ・プントのために「ホルン・ソナタ」作品17を作曲し、ベートーヴェンのピアノ伴奏で初演。2人は翌年、ブダペストでも同曲を披露している。
3月、「交響曲第1番」作品21を完成、翌月2日に初演。
12月、「ヴァイオリン・ソナタ第4番」作品23を作曲。
【1801年】(30歳)
10月、「ヴァイオリン・ソナタ第5番《春》」作品24を出版。
時期は不明ながら、この年の内に「ピアノ・ソナタ第13番&14番《月光》」作品27「同第15番《田園》」作品28を作曲。
【1802年】(31歳)
2月頃、「交響曲第2番」作品36が完成。
春頃に「ヴァイオリン・ソナタ第6〜8番」作品30が完成。
4月、耳の養生のため、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットヘ移る。
6〜9月頃、「第17番《テンペスト》」を含む「3つのピアノ・ソナタ」作品31を作曲。
10月6日と10日、『ハイリゲンシュタットの遺書』を二人の弟に宛てて、書く。しかし、その4日後にはウィーンへ戻る。
11月頃、権利関係の問題から、出版社とトラブルに。ゴタゴタは、翌年の初頭まで持ち越されることに。
【1803年】(32歳)
2〜3月頃、オラトリオ《オリーヴ山上のキリスト》作品85「ピアノ協奏曲第3番」作品37が完成。
5月24日、作曲者自身のピアノ、ジョージ ・ブリッジ タワーの独奏で「ヴァイオリン・ソナタ第9番」作品47(後の《クロイツェル》)を初演。
6〜10月頃、「交響曲第3番《英雄》」作品55を作曲。
8月6日、パリ・エラール社から最新式ピアノを贈られる。
11月~12月頃、「ピアノ・ソナタ第21番《ワルトシュタイン》」作品53を作曲。
【1804年】(33歳)
2月頃、「交響曲第5番」「ピアノ協奏曲第4番」のスケッチを開始。
5月末、ナポレオンの皇帝宣言を知って、《英雄》の表紙を破り捨てる。
9月頃、「三重協奏曲」作品56「ピアノ・ソナタ第22番」作品54を作曲。
【1805年】(34歳)
4月7日、《英雄》を初めて公開演奏。
春頃、「ピアノ・ソナタ第23番《熱情》」作品57を完成。
11月20日、歌劇《レオノーレ》(後に《フィデリオ》へ改題)を初演。
【1806年】(35歳)
当年の半ばまでに、「ピアノ協奏曲第4番」作品58が完成。
10月、「交響曲第4番」作品60が完成。
11月、「弦楽四重奏曲第7〜9番(ラズモフスキー第1〜3番)」作品59が完成。
12月23日、「ヴァイオリン協奏曲」作品61が完成。その日のうちに、初演された。
【1807年】(36歳)
春~夏、《ミサ曲ハ長調》作品86を作曲、9月13日に初演。
秋、画廊経営者の未亡人ヨゼフィーネ・ダイムにアプローチするが、失恋に終わる。
当年にプラハで行われた《フィデリオ》再演に向け、序曲《レオノーレ第1番》を作曲。
【1808年】(37歳)
当年の初頭頃までに、「交響曲第5番《運命》」作品67が完成。
早春頃、「チェロ・ソナタ第3番」作品69が完成。
春~夏、「交響曲第6番《田園》」作品68を作曲。
【1809年】(38歳)
4月、「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」作品73が完成。
5月、フランス軍がウィーンを包囲したため、砲撃を避けようと弟の家の地下室へ避難。
5〜9月頃、「弦楽四重奏曲第10番《ハープ》」作品74や、 「ピアノ・ソナタ第24番《テレーゼ》」作品78などを作曲。
10月、ピアノのための《幻想曲》作品77「ソナタ第25番」作品79が完成。
【1810年】(39歳)
4月27日、ピアノ独奏曲《エリーゼのために》Wo059を、主治医の姪テレーゼ・マルファッティヘ贈る。
5月頃、テレーゼヘ求婚するも、失敗に終わる。
6月15日、序曲と9曲から成る劇音楽《エグモント》作品84を初演。
当年中に「ピアノ・ソナタ第26番《告別》」作品81を完成。
【1811年】(40歳)
3月26日、「ピアノ三重奏曲第7番《大公》」作品97が完成。
4月12日、初めてゲーテに宛てて、手紙を書く。
8月1日、体調悪化のため、温泉地のテプリッツ(オーストリア国境近くのチェコ北西部に位置)へ保養に出かけ、9月頃まで滞在。
当年の秋までに、「弦楽四重奏曲第11番《セリオーソ》」作品95が完成。
9月、2つの劇音楽、《シュテファン王》作品113《アテネの廃墟》作品117を完成。
この年、人妻ながらベートーヴェンと親密な関係にあり、病に伏していたアントーニエ・ブレンターノを何度も見舞い、即興演奏を披露。彼女は、未だ特定されない“不滅の恋人”の最有力候補とされる。
【1812年】(41歳)
5月、「交響曲第7番」作品92が完成。
7月6日、“不滅の恋人”に宛てて、手紙を書く。翌日にも追伸を付け加えたが、結局、投函されず。
7月19日、テプリッツでゲーテと対面。意気投合し、1週間にわたり、毎日のように語り合う。
8月6日、前月26日に大火に見舞われたバーデンを支援するため、慈善演奏会を開く。
10月、「交響曲第8番」作品93が完成。
12月、ウィーンを訪れたフランスの名ヴァイオリニスト、ピエール・ロードのために「ヴァイオりン・ソナタ第10番」作品96を作曲。
【1813年】(42歳)
初秋、イギリス軍がフランスに勝利したことを祝う《ウェリントンの勝利(戦争交響曲)》作品91が完成。12月8日に「交響曲第7番」と共に初演。
【1814年】(43歳)
8月16日、「ピアノ・ソナタ第27番」作品90を完成。
11月29日、ウィーン会議出席のためにウィーン滞在中の外国要人を含む、満員の聴衆の前で「交響曲第7番」ほかを披露。
【1815年】(44歳)
1月頃、「ピアノ協奏曲第6番」の作曲に着手。しかし、5月頃には放棄し、未完に。
7〜8月、「チェロ・ソナタ第4番&第5番」作品102が完成。
夏、カンタータ《静かな海と楽しい航海》作品112を作曲。12月15日に初演。
【1816年】(45歳)
1月19日、甥カールの単独後見人に指名される。
4月頃、連作歌曲《はるかな恋人に》作品98を作曲。
7月、ヘルニアの手術を受けたカールに付き添い、バーデンに滞在。
10月、ウィーンに戻った途端に自身が病に倒れ、11月初旬まで床に臥す。
11月、「ピアノ・ソナタ第28番」作品101が完成。
【1817年】(46歳)
7月、難聴の進行に対処するため、大音量のピアノの製作をシュトライヒャーに依頼。
9月、「交響曲第9番」のためのスケッチを始める。
【1818年】(47歳)
1月24日、甥カールと同居を始める。
2月、ロンドンのブロードウッド社から贈られた、6オクターヴの音域を持つ最新のピアノが到着。難聴は悪化し、この時期から「会話帳」の使用を開始。
8月、「ピアノ・ソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》」作品106が完成。
12月3日、カールが家出。連れ戻して、寄宿学校へ入れるが、母親と裁判沙汰に。
【1819年】(48歳)
1月11日、カールを巡る裁判に負け、後見人の権利を取り消される。
4月上旬、《ミサ・ソレムニス》の作曲に着手。
【1820年】(49歳)
3月9日、恩人であり、ピアノと作曲の弟子でもあったオーストリア大公ルードルフのオルミュツ大司教への就任式。この機会のために作曲を進めていた、《ミサ・ソレムニス》は完成できなかった。
4月8日、何度も控訴を繰り返した末、共同ではあるが、カールの後見権を回復。
秋、「ピアノ・ソナタ第30番」作品109が完成。
【1821年】(50歳)
1月~11月、体調不良が続く。
12月25日、「ピアノ・ソナタ第31番」作品110(初稿)が完成。
【1822年】(51歳)
1月13日、「ピアノ・ソナタ第32番」作品111が完成し、浄書を開始。
1月頃再び体調が悪化。6月頃まで続く。
4月10日、作品111の終楽章の改訂稿を出版社へ送付。
4月頃、ロッシーニと対面。
10月頃、「交響曲第9番」と「第10番」へのスケッチを行う。
【1823年】(52歳)
2月、4年近くを費やした《ミサ・ソレムニス》作品123が、遂に完成。
4月、ピアノ独奏のための《ディアベッリ変奏曲》作品120が完成。
5月、「交響曲第9番」の作曲へ本格的に取り掛かる。
6〜9月、目の不調に悩む。
10月5日、ウェーバーの訪問を受ける。
【1824年】(53歳)
2月頃、「交響曲第9番《合唱付き》」作品125が完成。
5月7日、ケルントナートーア劇場で開かれた「大演奏会」で「交響曲第9番」を初演。終演後、満席の聴衆は大喝采を送ったが、耳の閾こえない作曲家は気づかず、アルト歌手が促して客席の方を向かせて、ようやく成功を知った。
11月初旬、弦楽四重奏曲の作曲へ本格的に取り組み始める。
12月20日、ロンドンのフィルハーモニー協会から招請を受ける。
【1825年】(54歳)
1月頃、「弦楽四重奏曲第12番」作品127が完成。
3月19日、ロンドンからの招請を断る。
5月7日、体調がすぐれず、保養のためバーデンに滞在。中旬に回復し、「弦楽四重奏曲第15番」の第3楽章「病が癒えた者の、神への聖なる感謝の歌」を書く。
7月頃、「弦楽四重奏曲第15番」作品132が完成。
12月、「弦楽四重奏曲第13番」作品130の終楽章として、《大フーガ》作品133が完成。
【1826年】(55歳)
8月、「弦楽四重奏曲第14番」作品131が完成。
8月6日、甥カールが拳銃自殺を図るが、急所を外れて未遂に。
9月末、退院したカールを伴い、ウィーンの北西約50キロのグナイセンドルフに住む、弟ヨハンのもとに滞在。
10月、「弦楽四重奏曲第16番」作品135が完成。
10〜11月、「弦楽四重奏曲第13番」の新たな終楽章を作曲。
12月1日、クレムスからウィーンヘの帰途に肺炎にかかる。
同月4日か5日、最後の完成作品となる、2声のための謎のカノン《我らすべて迷う、迷い方が異なるのみ》Wo0198を作曲。
同月9日にいったん回復を見たものの、腹水と黄疸を併発して重篤化。翌年2月末にかけて、4度の手術を受ける。
【1827年】(56歳)
1月2日、甥カールが軍への入隊のため、ウィーンを発つ。
3月18日、見舞金を贈ったロンドンのフィルハーモニー協会に対し、感謝の手紙を口述筆記。新しい交響曲と、他に1曲の提供を申し出る。
3月24日、希望していたワインが出版社から届くが口にできず、やがて昏睡状態に。この時の「残念だ、遅すぎた」が、最期の言葉とされる。
3月26日午後5時45分、永眠。
3月29日、ウィーンの三位一体教会で葬儀が営まれ、2万人が参列。その中には、翌年に自身も彼の地へ向かうこととなる、30歳のシューべルトもいた。

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