ベートーヴェン生誕250周年記念サイト

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ベートーヴェンの人生を知るエピソード

ベートーヴェンとは“大根農家”なり
ベートーヴェンの誕生日には、12月15日、16日、17日の3説がある。17日に洗礼を受けているので、前日の12月16日誕生説が最有力とされているが、実は彼、正確な誕生日がわかっていない、古典派(18世紀半ば位)以降ではかなり稀な作曲家なのだ。
ベートーヴェン一家は、祖父の仕事(宮廷楽師)の関係でドイツのボンへ移るまで、ベルギーのフランドル地方に住んでおり、画家のヴァン・ダイクやヴァン・ゴッホと同じ、ルートヴィヒ「ヴァン」ベートーヴェンの名が示すように、元々はオランダ、ベルギー系とみられている。
オランダ語で「Beet」は「砂糖大根」、「hoven」は「農家、農園」を意味するので、「Beethoven」はいわば「大根農家」や「ビート農園」。これが楽聖のルーツといえようか。

祖父は偉人、父は迷惑者?
ベートーヴェンが3歳の時に亡くなった祖父ルートヴィヒ(同名)は、ボンの宮廷楽長として多大な尊敬を集めた。しかし宮廷のテノール歌手だった父ヨハンは、酒癖の悪さで有名。
ベートーヴェンはその手ほどきで音楽を始めたもの、スパルタかつ横暴な父は、酔って帰ってきて息子を叩き起こし、夜通しピアノを弾かせたとのエピソードでも知られている。
しかもベートーヴェンがケルンで最初の公開演奏会に出演した際、本当は8歳になる年で当時7歳3ヶ月だったにもかかわらず、モーツァルトのような神童として売り出したい父が、年齢を6歳とサバ読みして発表。本人もずっと後まで1772年生まれと思い込んでいて、事実を知ったときには愕然としたという。

ベートーヴェン・ハウスを示す記念碑
© Michael Sondermann/Bundesstadt Bonn

作曲家の在り方を変えた革命的存在
それまでの作曲家とベートーヴェンの決定的な違いは、特定の宮廷や教会に雇用されることなく作曲を続けたこと。彼は実質的にフリーランスを貫いた史上初の大作曲家である。そのため創作は自身の意志(もちろん注文もあったが)で行い、自ら0p.=作品番号を記した史上初の大作曲家ともなった。さらには9曲の交響曲をはじめとする多様なジャンルにおいて、同じような曲をまず書かなかった。かくして音楽を職人芸から芸術に変えたのがベートーヴェン。それは彼以降の作曲家の方向性を決定付けた歴史的快挙でもある。
また彼は、メトロノームの速度指示を初めて楽譜に記した大作曲家だ。ただしその指定が速すぎることで後の演奏家に戸惑いを与えた。ちなみにメトロノームはベートーヴェンの補聴器を作ったメルツェルの兄が発明したとされている。

《月光ソナタ》の直筆譜
© Beethoven-Haus Bonn

せっかちなこだわり男か、単なる変人か?
ベートーヴェンは、身長160cm足らず(157cmとも165cm前後ともいわれる)で、情熱的かつ短気でせっかちな性格だったと伝えられている。しかも部屋は散らかり放題で、作曲中に奇声を発し、入浴による水漏れで階下の住民から苦情が相次ぐ始末。
おかげで(?)60回以上引越しを繰り返し、女中は20日ともたず、下手すると1日でやめた。服装にも無頓着で、浮浪者と間違われて逮捕されたこともある。さらにコーヒーとお酒が大好きで、ビールを飲みながら煙草を吸うのが楽しみだったというし、コーヒーは豆の数が常に60粒でなければダメというこだわりよう。
超絶的な偉業を成し遂げる人は、あらゆる意味で常人とは違う?

ミュンスター広場にあるベートーヴェンの記念碑
© Michael Sondermann/Bundesstadt Bonn

果たして耳はどこまで聞こえていた?
ベートーヴェンといえば、音楽家として致命的な耳の病に冒されたことで知られている。難聴が発覚したのは1790年代末期とされており、1802年には有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」が書かれた。だがこれは遺書というより決意表明的なもので、耳の病に悩んで自殺まで考えたが、強靭な精神力で苦悩を乗り越え、再び生きる意志を得て新しい芸術の道へ進む……といった内容。ある意味ベートーヴェンの強さを表わしている。
1816年頃には聴覚がかなり衰え、会話帳(筆談帳。138冊残されている)を使用し始めたが、人の声は聴こえなくてもピアノの音は多少聴こえていたとの説もある。後ろでピアノを弾いている弟子に「そこはおかしい!」と注意したとの逸話もあるし、医学的な立場からは骨伝導で聴いていたとの説も出されている。

ベートーヴェンの補聴器の一部
© Beethoven-Haus Bonn

生涯独身だが、浮いた噂は数知れず
かつてベートーヴェンは醜男でモテないため生涯独身だったといわれていたが、今は顔もそこそこで天才ゆえにかなりモテたとみられている。しかし恋する相手が概ね貴族など名家の娘や夫人だったため結婚には至らなかったようだ。実際彼の生涯を彩る女性は数知れず。それに関して重要なのは1812年に書かれた「不滅の恋人への手紙」だろう。「不滅の恋人」が誰か?は長年論議の的だったが、現在では大富豪の妻アントーニエ・ブレンターノであることがほぼ確実視されている。そしてまたこの時期は、10年来の恋人(?)だった貴族の人妻ヨゼフィーネ・ブルンスヴィックの存在も見逃せない。1813年に彼女は女児を産んだ。そのミノナなる娘がベートーヴェンの子ではないかとの説がある。むろん不確定だが、ミノナ(Minona)の綴りを逆から読んだ「Anonim」は「匿名、作者不詳」。何やら意味深だ……。

ボン旧墓地にあるベートーヴェンの母親、マリア・マグダレーナ・ケフェリッヒの墓
© Michael Sondermann/Bundesstadt Bonn

柴田克彦(音楽ライター)

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