ベートーヴェン生誕250周年記念サイト

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楽聖ベートーヴェン、その生涯と創作の軌跡

今年で生誕250年のメモリアル・イヤーを迎えた大作曲家、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)。作曲家にとって、命とも言うべき聴覚を失いながらも、数々の名曲を生み出し、溢れる創意で音楽界へ革命をもたらした彼は、やがて“楽聖”として称えられることに。
その波乱の生涯と創作の軌跡を、俯瞰してみよう。

生い立ち~父のスパルタ教育、ハイドンとの出逢い
ベートーヴェンは1770年12月16日、ドイツ中西部のボンで、宮廷のテノール歌手だった父ヨハンと、母マリア・マグダレーナのもとに生まれた。ヨハンはモーツァルト父子を理想として、3歳から息子を教育。その甲斐あって、ルートヴィヒは7歳にして演奏会を開き、11歳で作品を初出版するなど、幼少から類稀な楽才を発揮した。 その一方、息子が曲を弾き通せるまで、食事も与えずに部屋へ閉じ込め、暴力も厭わなかった父親は、やがてアルコール依存症で失職。ルートヴィヒや3歳年下の弟カスパルら子供たちに、いっそう辛く当たるように。そんな生い立ちが、その後のルートヴィヒの人格形成へ、暗い影を落とすこととなる。 11歳からは、作曲と鍵盤楽器を大家クリスティアン・ゴットロープ・ネーフェに学んだ。16歳の時にはウィーンへ赴き、敬愛するヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの前で即興演奏。これを聴いた天才作曲家は感嘆し、「諸君、注目し給え! 彼はやがて、世間を驚かせるだろう!」と叫んだとも伝わるが、これを事実と裏付ける証拠はない。 その5年後の1790年末。20歳を迎えたばかりのベートーヴェンは、1回目のロンドン訪問の途中にボンへ立ち寄った、ヨーゼフ・ハイドンと知己に。1792年の夏に再会した折り、若き楽聖は大作曲家に弟子入りを志願して認められ、秋にはウィーンへ移住。師弟関係は、ハイドンが2度目のロンドン訪問へと旅立つ、2年後まで続いた。
初期~先人の業績に学び、独自の作風を確立
20代前半のベートーヴェンはウィーンを拠点に、卓越したピアノのヴィルトゥオーゾとして活躍する一方、対位法などを本格的に学んだ。その上で、自身の創作活動にも精力的に取り組み、1795年には最初のピアノ協奏曲を完成させ、自らの独奏で初演。1800年には「交響曲第1番」を完成・初演している。  例えば、「交響曲第1番」「第2番」の冒頭楽章は、典雅な雰囲気のアダージョの序奏に始まり、軽快なアレグロの主部へと突入するなど、ハイドンが確立した交響曲の様式を踏襲。一方で、第1番で「メヌエット」が早くも「スケルツォ」の性格を帯び、第2番では実際にそう名乗るなど、早くも楽聖の創意が“刻印”されている。  まるで、人生における“春の時期”を過ごしていたかのような、若き楽聖。しかし、運命の足音は、ひたひたと彼の下に迫っていた。20代後半から始まった、耳の不調。原因は鉛中毒とも推測されているが、断定されていない。様々な治療法を試すも大きな効果は得られず、30代を迎えたころには、日常生活にも支障をきたす状況となっていた。
中期~死の誘惑を乗り越え、溢れ出る創作意欲
「さようなら。互いに愛し合ってくれ…無限の苦しみから、死こそが、私を救い出してくれるのでは?」。1802年10月6日、ベートーヴェンは、避暑に出掛けるのが常だった、ウィーン北部の村ハイリゲンシュタットで遺書を書いた。聴覚の異常は、いっそう進行。不器用な愛情を注いでいた、甥のカールとも、感情の行き違いが絶えなかった。 しかし、彼はほどなく、音楽を通じて生きる強さを、自らの内面に見出す。そして、その後の約10年間、溢れ出る創作意欲に裏打ちされた、多くの傑作を次々に生み出すことに。翌年には、ここハイリゲンシュタットで、不朽の傑作となる「交響曲第3番《英雄》」の作曲に着手し、翌1803年に完成。1805年には、唯一のオペラ作品となる《フィデリオ》が初演された。 翌年には「ヴァイオリン協奏曲」、その2年後には、ハイリゲンシュタットを流れる小川沿いを散歩中に得たイマジネーションを織り込んだ「交響曲第6番《田園》」、その翌年となる1809年には、やはり不朽の傑作に列せられる「ピアノ協奏曲第5番《皇帝》」を完成。弦楽四重奏曲やピアノ・ソナタにも多くの佳品が書かれ、後にフランスの作家ロマン・ロランが「傑作の森」と名付けることとなる、実り多い時期となった。
後期~誰も成し得なかった、独自の境地へ到達
耳の病気はさらに悪化し、40代半ばを迎えると、ほぼ何も聞こえない状態に。他の体調不良が重なる一方、念願かなって甥カールの後見人となるも、素行の不良や自殺未遂事件などで悩まされ、一時は作曲作業へも影響を及ぼすことに。しかし、やはり楽聖は、創作の現場に、生きる喜びを見出す。 強烈なリズム感に彩られた「交響曲第7番」(1812年)、宗教声楽作品の最高峰にも位置付けられる《ミサ・ソレムニス》(1823年)、声楽の導入や楽器編成、構成、メッセージ性など、あらゆる面で新機軸が盛り込まれた「交響曲第9番《合唱付き》」(1824年)と、音楽史に名を刻む大作を次々に完成。また、後期のピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲が湛える深い精神性と独創性の高さは、他の何者をも到達し得なかった境地だった。 1826年末に肺炎を患い、他の病気も併発したベートーヴェン。翌年3月18日には、口述筆記ながら、フィルハーモニー協会へ新曲の提供を申し出る手紙を書くなど、なお創作への意欲は衰えなかった。しかし、その8日後の1827年3月26日、遂に永眠。死の瞬間、閃光と共に雷鳴が轟き、楽聖は右手を上げ、拳を握りしめたと言う。56年の生涯だった。
人物像~自由で独立した、新時代の作曲家
一筋縄ではゆかない気難しい性格で、時には物を投げつけるほどの癇癪持ち。“ご近所トラブル”が絶えず、転居を繰り返した“引っ越し魔”。1杯あたり60粒の豆を使うと決めていた、律儀なコーヒー党。“不滅の恋人”へ宛てた、熱烈なラヴ・レター…。様々なエピソードが語り伝えられる楽聖だが、それらは全て、繊細な感受性と豊かな創造性に由来する、とは言えまいか。  そして、“第九”で描かれた人類愛のメッセージが示す通り、ベートーヴェンは「自由、平等、博愛」のフランス革命の精神を熱く支持していた人物であった。1804年5月末、革命の立役者であったナポレオンが皇帝に即位したと知った作曲家が、憤怒と共に、彼への献辞が書かれた《英雄》交響曲の表紙を破り捨てたとの逸話も、それを裏付ける。  さらに、「宮廷や教会に“就職”し、収入を得る」という、それまでの音楽家の生計の図式を崩す契機となったのも、やはりフランス革命だった。王や貴族から市民へ。社会の主役が交代する中、ベートーヴェンは“仕える”のではなく、対等の存在として契約を交わし、貴族だけでなく、商人ら市民層もターゲットに、プロの音楽家として活躍。彼は経済的に自立した、最初期の作曲家とも言えよう。
創作活動~自在な創意と、時代を超えた先進性
管弦楽作品からオペラ、宗教作品、様々な編成の室内楽作品や歌曲まで、多彩なジャンルの創作を手掛けたベートーヴェン。その中でも、生涯を通して取り組み、曲ごとに新たなアイデアを盛り込み、常に先鋭的な作品を生み出し続けた「交響曲」と「弦楽四重奏曲」、「ピアノ・ソナタ」は、3本の柱と言えるだろう。  ソナタ形式や変奏曲手法を大きく発展させた《英雄》、循環形式を用いて強烈なメッセージ性を打ち出した《運命》、標題音楽の先駆けと言える《田園》をはじめ、同じ人物の手になるとは思えないほど、全9曲が異なる個性と新たな創意に彩られた「交響曲」。中でも、「神がかり的」な飛躍を遂げたのが、“第九”こと「交響曲第9番《合唱付き》」だ。 交響曲へ初めて合唱と声楽ソリストを導入し、軍楽隊しか使わなかった大太鼓やシンバル、ピッコロや、コントラファゴットなどの特殊楽器も使用。さらには、「アダージョ」と「スケルツォ」の楽章を逆転させた、型破りな構成。そして何より、人類愛を高らかに謳うテーマの普遍性…。それまで誰も考え及ばなかった、多彩な新機軸が盛り込まれている。 また、ハイドンが確立した様式を体得し、最後には“破壊”して、全く新たな世界を創造した「弦楽四重奏曲」。そして、彼が使った“最新”の愛器の鍵盤数を反映し、タイプごとに異なる音色も考慮に入れるなど、「ピアノ」という楽器の発達史と、密接な関係を持つ「ピアノ・ソナタ」。これらは、常に進取の気性と実験的な精神に満ち、作品ごとに全く異なる輝きを放つ。 作曲における技法や語法、様式の上で、ロマン派への扉を開く革命をもたらし、ワーグナーやブラームスの例を挙げるまでもなく、数多くの後世の作曲家へ、多大な影響をもたらした“楽聖”。そして、今なお、全ての音楽家の目標であり続けているベートーヴェン。彼こそが、「音楽の未来を形創った存在」と言い切っても、決して過言ではなかろう。

寺西 肇(音楽ジャーナリスト)

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