リレー・コメント 星出 尚志 (ほしで たかし)

星出 尚志 (ほしで たかし) 監修 /  編曲

~ Profile ~

1962年山口県生まれ。中学、高校時代、吹奏楽部でトロンボーンを吹くかたわら、バンドの指揮や編曲もしていたが、大学在学中は専らシンセサイザーに没頭し、現在も自宅のスタジオは機材やコンピューターで埋めつくされている。大学卒業後、出版社にて吹奏楽曲の編集に携わったことがきっかけで、再びこの世界へ足を踏み入れることになった。
吹奏楽作品としては、『薄暮の都市─8人の奏者のために─』、『北川木挽歌による幻想曲』、『ブラボー・ブラス!』、
『丘の上のレイラ』、『ラ・グラン・マルシュ』などのオリジナルの他、ニュー・サウンズ・イン・ブラスなどの多くのアレンジがある。一方では、ミュージカルなどの舞台音楽も多く手掛けている。

参加作品

第36集 ニュー・サウンズ・イン・ブラス 2008 第31集 ニュー・サウンズ・イン・ブラス 2003 第24集 ニュー・サウンズ・イン・ブラス '96 第22集 ニュー・サウンズ・イン・ブラス '94 第18集 ニュー・サウンズ・イン・ブラス '90 and more...

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「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」の思い出

ニュー・サウンズ・イン・ブラス第1集がリリースされた1972年といえば、私はまだ小学5年生。中学生になり、吹奏楽部に入部して吹いたのがニュー・サウンズの「ヘイ・ジュード」や「マイ・ウェイ」だった。ちょうどその頃の吹連の課題曲にはポップス曲が必ず1曲入っており、岩井直溥先生の存在もそのとき知った。その当時、自分がそのニュー・サウンズのアレンジャーになるとはツユとも思わなかったが……。

私は高校時代も引き続き吹奏楽部に所属していたが、そこは30数名の歯抜けバンド。楽譜を買う予算もままならず、買えるのは廉価な某社のものばかりで、高価なニュー・サウンズは手が出なかった。仕方なく必要に応じて私がアレンジも行っていたのだが、当時某社のアレンジも手がけていた岩井先生のスコアは、なぜうちのような歯抜けバンドでもちゃんと鳴るんだろうという疑問が岩井アレンジを研究するきっかけとなった。もっとも、そのあたりがちゃんと理解できたのはずっと後のことなのだが、今から思えばこうした経験がずいぶん役に立っていると思う。

その後、大学時代は吹奏楽からは全く遠ざかっていたのだが、大学卒業後、ヤマハに潜り込んだ(笑)その日にいきなり与えられた仕事がニュー・サウンズの楽譜の校正作業。これも何かの因果だろうか。

その翌年、私はニュー・サウンズの楽譜制作スタッフとしてレコーディングに立ち会うことになる。ミキシングルームのモニター越しに聞き覚えがある声が流れてくる。かつて吹連の課題曲の模範演奏には作曲者の肉声解説が付いていたのだが、そう、あの声だ。紛れもなくあの岩井御大の姿がそこにはあった。あのニュー・サウンズのレコーディング現場に自分がいるということに昂揚していたことを今でも憶えている。

さて、そのレコーディングでひときわ印象に残った曲があった。アレンジャーは真島俊夫氏。そう、ニュー・サウンズの金字塔として現在もなお絶大な人気を誇るあの「宝島」である。こんなすごいアレンジをする人にはひとつご挨拶をしておかなきゃと思ったのだが、そのときのことを真島さんが、「変なヤツがいてね、僕のファンになってもいいですか?って言うんだよ」とあちこちで面白おかしく話しているらしい。そのせいもあってか、私のことを真島さんの弟子だと思っている人もいるようだが、私と真島さんとの間に師弟関係はない。念のため。とはいえ、その後真島さんは吹奏楽のいろいろな仕事で私を使ってくれるようになり、その関係は現在もなお続いている。

これまでのニューサウンズで取り上げた曲の集計によると、私のアレンジした曲はいつの間にか岩井先生、真島さんに次ぐ数に上っているらしい。吹奏楽界にポップスを導入したパイオニアとしての岩井先生、吹奏楽におけるポップス表現を確立した真島氏、私がこのお二人から受けた恩恵は計り知れなく、現在の私はこのお二人なくしてはありえない。「音楽はエンターテイメントだ」がモットーの私は、これからも吹奏楽を通して音楽の楽しさを伝えていくことができればと思っている。

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